上宮太子野球部グラウンド(行った回数:3回)
大阪府南東部、奈良県との県境すぐ近くの太子町に、上宮太子高校野球部のグラウンドがある。
我が自宅から車で約5分という近い距離にあるため、夕方になると金属バットの音と「ウェーイ、ウェーイ」という野球部員たちの意味不明な掛け声が聞こえてくる。
元々は大阪市天王寺区にある上宮高校野球部のグラウンドで、野球部強化を目指した同校がこの地に広大な野球部グラウンドを建設した。
当初は大阪市内から電車とバスを乗り継いで1時間半もかかるため、土日ぐらいしか使用できなかったが、OBらがマイクロバスを寄贈し、毎日このグラウンドで練習できるようになった。
その成果があったのか、上宮はメキメキ力を付け、春のセンバツで優勝1回、準優勝1回という全国屈指の強豪校に成長した。
1988年、グラウンドの敷地内に上宮高校太子校舎が完成し、1991年には上宮太子高校として独立、1998年に野球部が創部された。
野球部が出来ても、グラウンドは”兄貴分”の上宮と共同で使用していたが、運命の悪戯か創部2年目の1999年に夏の大阪大会準決勝で両校が激突。
一、二年生しかいない上宮太子が”兄貴分”の上宮を倒してしまった。
その年は準優勝だったものの、翌2000年の春のセンバツに甲子園初出場。
2001年には夏の甲子園にも初出場し、以降では”弟分”の上宮太子の方が上宮を上回る成績を収めている。
グラウンドから西へ約5km、富田林市にPL学園グラウンドがあり、強豪校のライバルとしてしのぎを削っている。
都心の高校はどうしても学校内に広いグラウンドが持てないため、大阪では強豪校のほとんどが郊外にある。
ちなみに上宮には日本では珍しいクリケット部があり、こちらは太子町のグラウンドは使わず、大阪市内の校庭で練習しているようだ。
上宮太子グラウンドは両翼91m、中堅120mと高校のグラウンドとしては申し分ない広さで、春季大会や秋季大会といった公式戦でも使用される。
ただ、照明設備はあるものの貧弱で、ナイトゲームを行うのは無理だろう。
また、内野は黒土だが外野には芝生はなく、砂地になっている。
さらに、PLグラウンドと違ってスタンドがないので、観戦はしづらい。
ただ、公式戦の時は父兄や関係者用に、一塁側と三塁側にパイプ椅子とテントが用意されるようだ。
バックスクリーンの左側にあるスコアボードはもちろん手動式だが、ボールカウントは既にBSOになっている。
ただ、間隔が歪なので、真ん中にあったB(ボール)を無くして、S(ストライク)の上に持って行ったのだろう。
スコアボードの裏側から、チーム名と得点板を野球部員が入れ替えている。
チーム名の「上宮太子」だけは(「上宮」もそうかも知れないが)ちゃんとしたゴシック体だ。
また、PLグラウンドのように打順表示がなく、あるのは得点とボールカウントだけである。
ベンチの造りはPLグラウンドと似ており、またネット裏には本部席のようなものがあった。
グラウンドの外に目をやると、三塁側に屋根付きのブルペンがあった。
3人で投球練習でき、おそらく練習用のブルペンだろう。
試合用ではグラウンド内に、一塁側と三塁側にブルペンがあった。
三塁側には体育館があるが、これは野球部専用ではないだろう。
ただウェートトレーニングはここで行っているのかも知れない。
体育館の脇にはジュースの自動販売機もある。
さらに、レフト後方には雨天練習場があった。
さすがは名門校である。
ちょっとしたノックや打撃練習は可能だ。
そしてバックネット後方から一塁側にかけて、野球部部室棟がある。
外から見るといくつか部屋があるようなので、おそらく野球部の寮も兼ねているのだろう。
その隣り、ライト側には上宮太子中学校の校舎がある。
つまり、グラウンドには高校よりも中学の方が近くて、高校はちょっと離れた所にある。
高校はグラウンドのレフト後方、一端道路に出てから行かなければならない。
雨天練習場の前に野球部員用の駐輪場があったのは、高校とグラウンドを自転車で行き来するためなのだろうか。
公式戦がある時は中学校側の駐車場を開放するので、車で行くことができる。
公共交通機関を利用する場合は、天王寺近くにある近鉄南大阪線の大阪阿部野橋から、河内長野行きの準急もしくは急行に乗り約30分、長野線の喜志駅で降りる。
喜志駅東口にある金剛バスのロータリーから喜志循環線というバスに乗り、上宮学園前という停留所で降りる。
ただし、バスは1時間に1本程度しかないので、あまりお勧めできない。
大阪とは思えない、かなりの田舎である。
さて、太子町の名前の由来は、もちろん聖徳太子である。
上宮太子グラウンドから北へ歩いて行くと、叡福寺という寺がある。
この叡福寺こそが、聖徳太子の墓所がある寺だ。
叡福寺は上之太子と呼ばれ、羽曳野市にある野中寺(中之太子)、八尾市にある大聖勝軍寺(下之太子)と共に「河内三太子」とされている。
府道32号線に面しており、南大門の階段を昇って行って叡福寺に入る。
境内に入ると、金堂など由緒正しき建物が並ぶ。
そして突き当たりの階段を昇っていちばん奥にあるのが、聖徳太子が眠っているとされる聖徳太子御廟だ。
二上山のふもと、この辺り一帯は「近つ飛鳥」と呼ばれ、奈良県の明日香村近辺にある「遠つ飛鳥」と並び、飛鳥時代の日本の中心地だった。
即ち、この近辺は奈良県に勝るとも劣らぬ史跡の宝庫である。
しかし、観光地化されている奈良県の史跡に比べると、南河内と呼ばれるこの付近は観光客も少なく、どの史跡もひっそりとしている。
叡福寺には聖徳太子の墓所があるにもかかわらず、同じく聖徳太子ゆかりの法隆寺や橘寺に比べると知名度は低い。
拝観料だって無料である(寺宝館のみ入場料200円。土日祝のみ開館)。
だが、観光地化されていないところがかえって魅力、という歴史ファンも多く、彼らは南河内探索を楽しんでいるようだ。
太子町には叡福寺以外にも史跡は沢山ある。
上宮太子グラウンドを訪れた人も、野球が終われば散歩がてら叡福寺などに寄って、いにしえのロマンに浸ってみてはいかがだろうか。
太子町の道端あちこちにある、ランドセルを背負った聖徳太子