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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

宿沢ジャパン平尾組〜W杯唯一の勝利〜その7

1991年10月5日、スコットランドの「首都」エディンバラのマレーフィールド競技場で、東京での屈辱を晴らさんとする大男たちがジャパンの勇士たちの前に立ちはだかった。
第二回ワールドカップ予選B組の初戦である。
ジャパンの相手は、地元のスコットランド。
二年前、宿沢新監督を迎えたジャパンが秩父宮で破り、当時のIRB加盟8ヵ国から初勝利を飾った相手である。
もちろんそれは、スコットランド代表にとって耐えがたい屈辱だった。
この日のマレーフィールドには、二年前に来日しなかったメンバーがズラリと顔を揃えていた。
トーキョーでの失態を我がホームタウンで……と、誰もがジャパンを叩き潰そうと腕を撫している。
10月のエディンバラには、英国北部から来た男たちを悩ませた、日本の梅雨入り前特有の高い気温も湿度もない。
ジャパンにとっては肌寒いくらいの、しかも強い風が吹く天候は、スコットランド代表にとってベストコンディションであった。


ジャパンにとって苦戦は目に見えていた。
二年前と違い、マレーフィールドのスタンドを埋め尽くした超満員の観客を含めて、全てはスコットランドに味方していた。
宿沢は迷った挙句、思い切ってメンバーを入れ替えた。
ずっと宿沢ジャパンを支えてきたHO(フッカー)の藤田、LO(ロック)の大八木淳史(神戸製鋼)、SH(スクラム・ハーフ)の堀越をメンバーから外したのである。


大八木は同志社大学時代から林と共にLOコンビを組み、卒業後は神戸製鋼でもチームメイトとなり、そしてジャパンでもこのコンビは「史上最高」と言われてきた。
寡黙で小柄な林と、陽気な大男の大八木とのロック陣は、ジャパンFWにとって戦力のみならず、精神面でも欠かせない存在だった。
だが、宿沢ジャパンにはもう一人、エケロマ・ルアイウヒ(ニコニコドー)という西サモア出身の有望株が育ち、LOは林、大八木、エケロマの三人体制で、三人の調子や相手チームによって起用を変える方針が採られた。
そうは言っても、宿沢ジャパン発足以来、重要な試合では必ず先発出場してきた大八木にとって、やはりショックな出来事だった。
スコットランド戦のメンバーから外れたことについて、大八木は知人から「なんで出ないんだ?怪我でもしたのか?」と、もっとも聞かれたくない質問を受けた。
「メンバーを落としたんや。(第二戦の)アイルランド戦には出るよ」大八木にはそう答えるしかなかった。
怪我もしていないのにスタンドから我がチームの試合を観る、こんな辛いことはない。


宿沢ジャパン発足以来、SHは堀越で固定されていたと言ってよい。
「展開―接近―連続」という、大西ジャパンからの戦術の系譜に、早大出身の堀越ほどジャパンのSHに相応しい人物はいない。
しかし、スコットランドに対してはイチかバチかの勝負を賭ける必要があった。
宿沢は悩みぬき、SHから堀越を外し、村田亙東芝府中)の起用を決めたのである。
村田はまさに急成長を遂げたSHだった。
成長株、といっても、堀越よりは2歳年上で、遅咲きだったのかも知れない。
余談ながらこの村田、40歳過ぎまで現役を続けていたバケモンである。
村田という姓の人間は、50歳を越えても140Km/hの速球を投げ続ける村田兆治の如く、不死身の肉体を持っているのだろうか。
堀越、村田というスーパーSHがいたために、その下の世代では永友洋司(明大―サントリー)という素晴らしいSHがいたが、永友がジャパンのSHとして活躍することはほとんどなかった。


村田はずっと堀越の陰に隠れていたが、ここへきてメキメキと頭角を現し、特にW杯前に行ったジンバブエ遠征では大活躍した。
W杯第三戦で対戦するジンバブエの偵察のために、日本選抜をジンバブエに遠征させた。
その一員として村田はジンバブエで試合出場したのだが、そのプレーぶりを見てジンバブエの首脳陣は「ムラタがBチームの選手ということは、ジャパンにはもっといいSHがいるのか」と宿沢に質問した。
村田は堀越に比べれば、海外での評価が高かったように思える。
ただ、ジャパンの戦術には堀越が不可欠だったということだ。
それにもかかわらず、スコットランド戦に村田を起用したということは、村田の持つ一瞬の爆発力に賭けたのだろう。


超満員のマレーフィールド競技場。
ジャパンにとっては全てが敵である。
前半からスコットランドはラッシュをかけ、早々と7−0とリードした。
しかしここから前半19分、FB細川があっと驚く40mDG(ドロップ・ゴール)を決め、3−7に迫った。
そこからスコットランドは突き放しにかかり、一時は3−17まで差が拡がったが、前半終了間際にジャパンのビッグプレーが出た。
スクラムから出たボールをSH村田→SO(スタンドオフ)松尾勝博(ワールド)→インサイドCTB平尾から、入ってきたアウトサイドCTB朽木を飛ばしてFB細川にパスするというサインプレーだった。
しかし、スコットランドディフェンスラインは一枚上で、数を余らせようとするジャパンのアタックを読み、ディフェンスが足りなくなることはなかった。
ここで平尾は作戦変更。
細川への飛ばしパスをせずに、内側に切れ込んだ。
パスを受けるはずの細川は戸惑ったが、一瞬の判断で変化する平尾のラグビーは、神戸製鋼のチームメイトとして経験済みである。
すぐさま平尾のあとを追った細川は、タックルを受けながら平尾が放り投げたボールを掴み、ノーマークでスコットランド陣のゴールラインになだれ込んだ。
ジャパン待望の初トライである。


宿沢は、真のチームワークとは、チームプレーが上手くいかなかった時にこそ発揮される、と語っている。
サインプレーがバッチリ決まってトライを獲る、それがチームプレーと思われがちだが、そうではない。
ラグビーは相手があるスポーツなので、サインプレーが上手くいかないことの方が圧倒的に多い。
そんな思わぬ展開のときに、チーム全員がサインなしで同じ目的に向かってプレーができるか、それが真のチームワークというのだ。
宿沢ジャパン平尾組のチームワークとは、このレベルに設定されていた。
この宿沢イズムと、当時は「自由奔放のラグビー」ともてはやされていた神戸製鋼のラグビーが合致した瞬間だろう。
トライを決めた細川自身のCG(コンバージョン・ゴール)も決まり、前半は9−17で折り返した。
まだまだ逆転が望める点差である。


キャプテンの平尾は後に述懐している。
このスコットランド戦の前半は、自分が体験したテストマッチの中でもベストに近い試合内容だった、と。
スコットランドの本拠地、マレーフィールドで秩父宮での返り討ちができるのではないか。


しかし、その夢は無残にも打ち砕かれた。
一番大事な後半開始早々、一瞬のミスからトライを奪われた。
そこからジャパンの反則によりPGを立て続けに決められ、緊張の糸がプッツリと切れた。
パワーの差がモロに出て、次々にトライを獲られ、ジャパンは後半無得点。
終わってみれば、9−47とジャパンの完敗。
スコットランドは地元の大観衆の前で、これ以上ない形でトーキョーでのリベンジを果たした。


しかし、宿沢にはある種の満足感があった。
スコットランドはガチンコで、ジャパンを叩き潰しに来た。
ジャパンは伝統あるIRB加盟国を本気にさせたのだ。
試合後、スコットランドのマクギーマン監督は「ホームグラウンドで試合をするのはいいものだ」と満足げに語った。
今まではジャパンに対しては勝って当たり前だったが、この試合は心から喜べる1勝だったのだろう。


このスコットランド戦は、ジャパンが初めて体験する真の「テストマッチ」だった。


(つづく)