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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

思考代行業

昨日書いた日記について、ある人が書いてくれた感想がきっかけで、中学時代の国語の教科書に載っていた「思考代行業」というコラムを思い出した。
その教科書はもう手元にはないが、憶えている内容を記してみる。


このコラムを書く10年ほど前はアマチュア選手批評を書いていたという著者が、最近では野球観戦はテレビを覗く程度だった。
それが、野球に興味を持ち出した著者の息子が球場に連れて行って欲しいとせがんだため、甲子園にナイターを観に行くことになった。


久しぶりに観る球場での野球は、テレビの小さな画面に切り取られたチマチマした野球と違って断然迫力があり、野球にのめり込んでいた10年前の自分を取り戻した気分になった。
ところが試合が進むうちに、奇妙な意識に捉われ始めた。
野球がつまらないのである。あるいは頼りないのである。


目の前では見事なプレーが行われているのに、なぜ頼りなく感じるのかを考えてみた。
その原因はどうやら、実況や解説がないからだ、ということに気付いた。
テレビを見ていると、1球1球実況や解説をしてくれるから、視聴者はその情報を聞いていれば良い。
「第1球、投げました。ストライク!外角低めにカーブが決まりました。解説の○○さん、××投手の調子はどうですか?」
「今日で三連投ですからね(筆者注:先発投手が三連投というのも時代を感じさせる。さすがに先発で三連投というのはなかっただろうが、昔は三連戦の第一戦と第三戦でエースが先発、第二戦でリリーフ登板することも珍しくなかった)。ちょっと疲れが残っているようですねえ」
「あ、監督がベンチから出てきて審判のもとに歩み寄りました。今の判定はおかしい、と抗議しているようですね」
などといちいち状況を説明してくれる。


しかしスタンドから見ているとストライクかボールかは球審のゼスチャーでわかるが、どのコースに投げたのか、あるいはドロップ(筆者注:これも死語。縦のカーブのこと)だのスライダーだのはわからず、ましてや投手の肩の調子などわかるわけがない。
監督が審判に抗議をしているのはわかっても、何について抗議しているのかはわからない。
だが頼りないのは息子も同じようで、プレーが起こるたびに「今のはなぜ?」「今のはどうなったの?」といちいち著者に訊いてくる。
訊かれても著者には上手く答えられない。


そこで著者は、1球1球このケースではテレビでこういうことを言うだろうと、自分の頭の中で実況を始めた。
ピッチャーが三振に打ち取った。守備側の応援団から大歓声が上がる。
「ああ、よく粘ったのに、残念でしたねえ」
自分の頭の中でそう実況していたので、著者はビックリした。
「残念だった」のはあくまでも攻撃側のことで、守備側から見れば、言葉は悪いが「ざまあみろ」ということになる。
にもかかわらずテレビではこういう場面でほとんど「残念でしたねえ」と言っている。
そして視聴者は、別に攻撃側チームを応援していなくても「残念だった」という気分になる。


これは野球に限ったことではなく、現在ではテレビが全て個人の思考を代行してくれている。
我々はテレビに慣れ過ぎて、考えることを放棄して他人(テレビなどのメディア)に委ねてしまっているのではないか。


多少は違うかも知れないが、概ねこういう内容だった。
中学生だった僕が読んだ時ですら古い文章だなあ(三連投とか、ドロップとか)と感じたぐらいだから、教科書に掲載される前、おそらく今から40年ぐらい前に書かれたコラムだと思う。
その頃に比べて現在はマシになったか、と言えばそうとはとても思えない。
むしろ最近の方が、メディアが多様化しているにも関わらず、思考代行業が進んでいる(というより酷くなっている)ように感じる。


オリンピックや国際スポーツ大会のテレビ中継を見ていると、「ニッポン万歳!」実況がこれでもか、これでもかと流れてくる。
戦前の「前畑ガンバレ!」実況が可愛く感じるぐらいだ。
アナウンサーや解説者が思わず日本に肩入れしてしまうのは仕方がないことだが、最近ではテレビ局が扇動しているようにも感じられる。
もっとも、こんなことは日本に限った事ではないだろうし、日本よりももっと露骨に自国応援実況を演出している国も少なくないだろう。
とはいえ、過剰な「ニッポン万歳!」実況は、いくら日本を応援していてもウンザリしている視聴者は多いはずだ。
純粋にスポーツを楽しみたい視聴者だって大勢いるのである。


もちろんこういう現象はスポーツ中継ばかりではない。
たとえば震災が起こる前は、日本の原発は安全ですとテレビや新聞で唱え、その必要性を訴える。
ところが原発事故が起きた途端に掌を返したように、原発は危険で必要ないと大キャンペーンを張る。
原発事故が起こる前は原発反対論を封じ込め、起こった後になると原発必要論は犯罪者扱いだ。
ここで言っているのは、原発が必要か否かということではなく、論陣の張り方があまりにも気味が悪い、ということである。


ちょっと話は変わるが、戦時中に「欲しがりません、勝つまでは」という標語を考えた少女は表彰を受け、近所からも大評判となったが、敗戦となると一斉に非難の目を向けられたという(実際にこの標語を考えたのは少女の父親だったそうだが)。
戦時中にせよ現代にせよ、政府やメディアが国民を無思考にした、いい例と言えるだろう。
かつてヒトラーが言った「世論とは国民の意見ではなく、マスコミによって作られる」という言葉が、現在でも脈々と受け継がれている。


歪なのはテレビや新聞だけではない。
インターネットもまた、人々の無思考に一役買っている。
インターネットの普及により情報が氾濫しているが、利用者がその情報について考え、判断して意見を持つのなら問題はない。
その人はインターネットを上手に利用しているからだ。
結果的にその意見が間違っていたとしても、充分に考えたうえで出した結論ならば、修正はいくらでも利く。
あるいは、インターネットにより世界の人々が情報を得ることができた。
そのため、情報を遮断していた独裁政権を潰してしまったという、インターネットの功績は大きい。


ところが、インターネットの情報に踊らされてる人がなんと多いことか。
自分に都合のいい情報を鵜呑みにし、そのことについて是か非か考えようとせず、それ以外の意見は一切受け付けない。
無思考もここに極まれり、としか言いようがない。
こういう人は、インターネットに利用されているのである。
インターネットでもテレビでもそうだが、人が利用する分には何の問題にもならないし、むしろ有益になる。
でも、それらのメディアによって、人が利用されてはならないのだ。
利用されないためにも、人は思考するということを止めてはならない。


インターネットでの議論でも、一つの意見が主導権を握ると、もう他の意見を受け付けない空気になってしまう。
反対意見など述べようものなら、水に落ちた犬は打て、とばかりに集中砲火を浴びせる。
こういうのを見ていると、意見を主張しているというより、自分の意見をゴリ押しして感情論に流されているようにしか見えない。
考えることを放棄してしまっているのだ。
一般社会でもこういう人は多い。
いわゆるワンマン社長とか、カリスマ上司と呼ばれる人種だ。
こういう人達も自分の意見が正しいと妄信し、違う意見を言う人はすぐ左遷してしまう。
これも無思考の典型的な例である。


かつて上岡龍太郎がこんなことを言っていたことがある。


Aさんという人がaという意見を持っている。
そしてBさんという人がbという意見を持っている。
AさんとBさんが徹底的に議論し、aという結論に達した。
他の人が見れば、Aさんの意見が通ったのだから、Aさんの方がBさんより優れていると思うだろうが、そうではない。
では自分の意見を引っ込めて、相手の意見を尊重したBさんが偉いのかと言えば、そういうわけでもない。
これは二人で意見を戦わせ、aという結論を出したAさんとBさんによる二人の勝利なのだ。


言い得て妙だと思う。