今週号の週刊ベースボールは高校野球ライバル特集だったが、僕が一番強烈に印象が残っているのが、1979年(昭和54年)頃の大阪である。
この頃の大阪高校野球界は「私学7強」と呼ばれていたが、特にPL学園と浪商(現・大体大浪商)がしのぎを削っていた。
「わいらの浪商」と呼ばれるほど浪商と言えば大阪における高校野球の象徴的存在であり、春夏共に2回ずつの全国制覇を誇る、まさしく浪華の名門だ。
しかし1961年(昭和36年)に”怪童エース”尾崎行雄を擁して夏の甲子園制覇して以来低迷期に入り、代わって新興校のPL学園が台頭してきた。
PLが夏の甲子園で準優勝を遂げた1970年(昭和45年)以降は完全にPL時代と言ってもよく、浪商は次第に甲子園から遠ざかっていった。
そんな落ちぶれた浪商に1977年(昭和52年)、待望の有力新入生が二人も入ってきた。
快腕投手の牛島和彦(のちの中日他)と、強打の捕手の“ドカベン”こと香川伸行(のちの南海・ダイエー)である。
浪商は牛島−香川のバッテリーに名門復活を賭けた。
その年の秋、新チームになった浪商は早くも牛島−香川の一年生バッテリーを軸にチーム作りを始めた。
この時すでに、一年生の牛島がエースで香川が四番打者である。
そして秋季大阪大会の決勝リーグ戦で宿敵PLと対戦したが、あえなく大敗。
それでも近畿大会に進出して準決勝ではPLに逆転勝ちして雪辱を果たし、決勝では村野工に敗れたものの見事準優勝して翌春のセンバツ切符を手にした。
優勝候補の一角として1978年(昭和53年)のセンバツに出場した浪商だったが、一回戦で高松商に0−3で敗れ、名門復活のアピールはできなかった。
この年、やはりセンバツに出場したPLはベスト8に進出、ここでも差を付けられた。
さらにその年の夏、浪商は四回戦で足元をすくわれあえなく敗退。
逆にPLは西田真二(のちの広島)−木戸克彦(のちの阪神)のバッテリーで大阪大会を勝ち抜き、甲子園では準決勝で中京(現・中京大中京)、決勝で高知商をいずれも逆転サヨナラ勝ちで初の全国制覇、「逆転のPL」「奇跡のPL」と騒がれた。
この年、浪商はPLに対して完全に差を付けられた形となってしまった。
その年の秋、新チームとなった浪商とPLが対戦、PLが勝って浪商は返り討ちに遭った。
しかしこの時は香川が右手人差し指を骨折していたため試合は欠場、負けても仕方がない状況だった。
それでも浪商は近畿大会に進出し、宿敵箕島をコールドで破るなどして近畿大会を制した。
もちろん浪商は翌春のセンバツに選ばれ、PLと共に大阪代表として2年連続アベック出場となった。
その1979年(昭和54年)のセンバツは「近畿勢をマークしろ!」が合言葉となった。
有力校が近畿地区に集中したからだ。
事実、この年のセンバツではベスト8が全て西日本勢、さらにベスト4は箕島、PL、浪商、東洋大姫路と、近畿勢が独占したのである。
準決勝で前年夏の覇者であるPLは箕島に延長10回で3−4の逆転負け、決勝ではその箕島と浪商が壮絶な打ち合いを演じるも、技の箕島が僅かに勝り、浪商は7−8で敗れて惜しくも準優勝に終わった。
ちなみにこの年のセンバツで、PLと浪商は一回戦で同じ日に登場している。
センバツでは同一県の高校同士は決勝戦まで当たらないように工夫されているため、一回戦で同一県の高校が同じ日に登場することはメッタにないのだが、この年は運命のいたずらか、一回戦でPLと浪商が同じ日に組まれてしまった。
前年夏の優勝校であるPLと、牛島−香川のバッテリーの浪商が同時に見られるということもあって、甲子園は超満員。
実はこの頃は小学生だった僕もこの日の甲子園に行っており、とにかく凄い人出だった。
翌日の新聞で、あまりの人の多さに将棋倒しになって小学生が死亡した、ということを知った。
夏はともかく、最近では春のセンバツでここまで超満員になることはあまりないので、高校野球がいかに熱い時代だったかがわかる。
その年の夏、大阪大会の興味は浪商かPLか、甲子園に行くのはどっちだ?という一点に絞られた。
センバツ準優勝の浪商と、センバツ4強で前年夏の覇者であるPLと、どちらが強いか?という点である。
両校ともセンバツで敗れたのは箕島で、しかもいずれも1点差の大接戦だった。
浪商に牛島−香川の超高校級バッテリーあれば、PLにもセンバツで香川以上の特大ホームランを放った小早川毅彦(のちの広島他)、やはりホームランを放った山中潔(のちの広島他)、さらに当時としては新記録となるセンバツ個人3ホーマーを放った阿部慶二(のちの広島)など、浪商に勝るとも劣らぬタレント揃いだった。
牛島はセンバツでは疲労が溜まり、決勝の箕島戦では打ち込まれるなど、センバツ後の腰痛はピークに達していた。
しかし夏に向けてしっかりと調整し、夏の大阪大会では本来のピッチングを取り戻した。
強豪ひしめく大阪大会で、牛島は準決勝まで無失点の快投を演じていた。
プロ入り後はフォーク投手というイメージが強かった牛島も、高校時代は剛速球が売りだったのである。
一方のPLも大阪大会を順当に勝ち進んで、遂に浪商との決勝戦の日を迎えた。
甲子園の決勝でぶつかってもおかしくはない両校が、地方大会で激突するのである。
大阪大会決勝戦の舞台は、大阪城に程近い日本生命球場。
今はもう存在しないが、大阪のド真ん中に位置する球場である。
この立地条件に加え、浪商とPLの黄金カードにより、日生球場には満員となる25,000人のファンが詰め掛けた。
甲子園の1,2回戦よりも、よほど凄い対戦なのだから無理もない。
PLの主砲、小早川が自著で、この日生球場の立地条件が勝敗を分けた、と語っている(「負けない集中力」ベースボール・マガジン社新書)。
大阪郊外の富田林市に学校があるPLは、バスで大阪都心の日生球場に向かったものの渋滞に巻き込まれ、球場に到着したのは試合開始の僅か30分前だった。
現在でこそ大阪外環状線や国道309号線が開通して、富田林市内から大阪市内への交通網が整っているが、当時はまだ未発達だったのである。
普通なら試合開始の3時間前には球場入りして、特に決勝戦ならみっちりと練習をして試合に備えることができる。
ところがたったの30分前では、ロクなウォーミングアップもできない。
さらに、球場に到着して即試合という、心理的な追い打ちをかけたとも言える。
試合前のジャンケンでPLは迷わず後攻を取った。
「逆転のPL」なのだから、後攻を取るのは当然である。
ところがこの日は状況が違った。
投手が投球練習をしていないのだから、先攻を取るべきだった、と小早川は述懐している。
なぜなら、先攻だと自軍の攻撃中に、投手が投球練習をできるから。
しかしPLが後攻を取ったため、先発のアンダースロー・中西康智はほとんど投球練習もなしでいきなりマウンドに登った。
調子の出ない中西に対し浪商打線は襲い掛かり、香川の2点タイムリーツーベースなどで初回に一挙5点も奪った。
これまで無失点の快腕・牛島に対し、さしもの強打を誇るPL打線でもいきなりの5点ビハインドは厳しい。
それでもPL打線は牛島を果敢に攻め、初回には1点を返し、さらに3回には2点を奪い取ってその差2点に詰め寄る。
だがその後、PLはさらに1点を奪われエース・中西は降板。
二番手に速球派・竹中暢啓を送り込むも浪商打線の勢いは止められず、浪商は着々と加点。
投手力の差が勝敗を分けた。
結局、9−3で浪商が快勝し、あの尾崎以来の18年ぶりの夏の甲子園である。
宿敵・PLを破った浪商の次の目標はセンバツ決勝で敗れた箕島だった。
浪商は順当に準決勝まで進出したが、箕島戦を目前にして徳島の池田に0−2で敗れた。
あと一歩で浪商は打倒箕島の悲願はならず、その箕島は決勝で池田を破って史上4校目の春夏連覇を成し遂げた。
僕が印象に残っているのは、牛島と小早川の対決である。
超高校級の投手と打者との一騎打ち。
打者としては当時は人気者のドカベン香川の方が注目されていたが、本当の実力では小早川の方が上だった。
センバツで香川はバックスクリーン左へ125m弾を放ったが、小早川はそれを上回る右中間への130m弾をかっ飛ばした。
おそらくこれは、のちにPLの後輩である清原和博(のちの西武他)が夏の甲子園で放った140m弾より以前の、甲子園最長記録だろう。
夏の大阪大会決勝では、小早川は牛島から3安打を放っている。
特に、最終打席のライト前ヒットは、凄まじい打球の速さで、牛島を震撼させたのではないか。
牛島は浪商卒業後、中日に入団し、小早川はPL卒業後は法政大に進学して、卒業後は広島に入団している。
プロ入り後は、牛島は中日のクローザーとして、小早川は広島の主軸打者として何度も対戦した。
そのたびに、両者はあの夏の日の日生球場を思い出していたのだろうか。