ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

想い出のフィールド(61)〜駒沢球場

駒沢球場(行った回数:0回)


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駒沢球場と聞いて、どんなイメージを持たれるだろうか。
今の東京都民なら、夏の高校野球東東京大会で使用されている球場だろ、と言うだろう。
だがオールドファンは、かつての東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の本拠地だ、と懐かしそうな顔で言うかも知れない。
そう、駒沢球場とは二種類あるのだ。
この二つの駒沢球場は共存したことはなく、現存するのは前者の高校野球で使用されている駒沢球場で、東映の本拠地だった駒沢球場は既にもうない。
では、既に取り壊された方の駒沢球場は、どんな歴史を歩んだのだろうか。


東映の本拠地として君臨した駒沢球場の正式名称は駒澤野球場。
開場は1953年(昭和28年)9月21日で、造ったのは東映ではなく、東京急行電鉄だった。
当時はまだ東映フライヤーズではなく、その前身の東急フライヤーズで、当然本拠地球場として建設した。
その頃、首都圏にはプロ球団が5球団も集中し、いずれもが後楽園球場を本拠地として使用するという超過密状態だった。
東京には他にも明治神宮球場があったが、学生野球中心の球場だったし、神聖なる神宮球場を職業野球が使用するのはまかりならん、という風潮が当時にはまだ根強く残っていたのだ。
開場したのはシーズン終盤だったが、さっそく東急が駒澤野球場での初試合を開催している。
しかし翌年には東急の傍系会社で映画会社の東映に経営譲渡し、開幕から名実ともに東映フライヤーズの本拠地球場となった。


駒沢と言えば今でこそ綺麗で便利な街と認識されているが、当時は都心から外れた田舎で、周りはネギ畑やイモ畑だらけだった。
風が吹けば人糞肥料の臭いが充満し、さらに黄塵が舞い上がり目が開けられない状態。
道もできたばかりなので雨が降れば泥沼状態になって、歩くには長靴が必要だったらしい。
球場改善案の中には「周りの道路を舗装して欲しい」と、今では考えられないような要望が出されていたという。
さらにこの年の開幕日、即ち東映フライヤーズにとっての初試合だったにも関わらず、観衆は僅かに186人。
駒澤野球場へ行くには当時は渋谷からのバスのみだったが、東映の球団代表が乗ったそのバスには4人しか乗ってなかったという、信じられないエピソードがある。


しかしそんな環境がかえって、駒沢周辺のファンが東映フライヤーズに親しみを持った原因になったのかも知れない。
東映フライヤーズは地域住民に、徐々に浸透していった。
そして東映フライヤーズには土地柄を反映してか、ケンカがメシより好きな荒くれ者たちが集って来た。
東映に入団した山本八郎、張本勲土橋正幸らは「東映の暴れん坊」という異名をとり、文字通り駒澤野球場で暴れまわった。
プロ野球チームというよりは東映の任侠映画である。
事実、悪役俳優として有名な八名信夫は元々は東映フライヤーズの投手であり、駒澤野球場のマウンドに実際に登っていた。
しかし未勝利に終わり僅か3年でクビを宣告され、球団からは俳優になれという指令が出たという。
プロ野球選手のセカンドキャリアの受け皿として俳優の道を用意するとは、映画会社ならではだ。


張本は駒澤野球場に来る客のことを、
「近所からゲタ履きでゾロゾロ球場に来て、試合後も合宿所まで選手に付いていくような、ファミリーのような雰囲気だった」
と語っていた。
駒澤野球場が存在していたのは僕が生まれる前なので、もちろん見たことはないのだが、写真(当然モノクロ)で見ると東京にあったとは思えない、牧歌的な雰囲気の球場だ。
夏になると蚊が大量に発生するため、東映の大川博オーナーから記者席に蚊取り線香が差し入れられたという、時代を感じさせるエピソードが残っている。


フィールドは内野が土で外野は天然芝、広さは両翼91.5m、中堅122mと当時としてはまずまずで、ナイター設備は1955年に完成し、一応プロ野球本拠地球場としての体裁を保っている。
しかし収容人員は20,000人となっているが、座席が広くなった現在なら20,000人も入るとは思えず、せいぜい15,000人ぐらいだろう。
写真で見ると外野は芝生席(というよりも単なる土盛り)で、スタンドが異様に低い。
おそらく日生球場よりも低いのではないか。


駒澤野球場で起きた最大の珍プレーと言えば、「振り逃げ満塁ホームラン」だろう。
1960年7月19日、大毎オリオンズ(現・千葉ロッテ・マリーンズ)戦での8回表、二死満塁で大毎の四番打者・山内和弘がフルカウントから見逃し三振したが捕手がこれを後逸。
満塁でも二死なので当然、振り逃げは成立するが、東映ナインはルールを知らなかったのか、全員ベンチに引き上げてしまった。
これ幸いと山内および満塁走者は一気にダイヤモンドを駆け巡り、珍しい振り逃げ満塁ホームランとなった。
普通、見逃し三振で振り逃げになることは珍しく(振り逃げは大抵ボール球を空振りした時に発生するが、ストライクゾーンに来た球をプロの捕手が後逸することは滅多にない)、しかもルールを知らずに4点献上したということで、東映は本拠地で大恥をかいてしまった格好である。
こういうエピソードも、いかにも駒澤野球場らしいと言えるかも知れない。


成績が振るわなかった東映も、1961年に水原茂監督を迎えて優勝戦線に食い込むまでに成長したが、駒澤野球場は突如として姿を消すこととなる。
翌1962年、東京オリンピック開催を控えた東京都は駒澤野球場の土地を都に返還するように要求、当時は日本国中が東京五輪成功に向かって協力する風潮があったので、東映球団はこの申し出を受け入れた。
この年、駒澤野球場は解体され、僅か9年という短い歴史の幕を閉じた。
その年から東映は神宮球場を本拠地としたが、球団初のリーグ優勝、さらに日本シリーズも制して日本一にも輝いた。
しかし、東映をずっと支えてきた駒澤野球場はその晴れ姿を見ることはできなかった。


駒澤野球場が取り壊された跡地には、駒沢オリンピック公園が建設された。
駒澤野球場があった場所は、現在の陸上競技場辺りである。
その駒沢オリンピック公園内に建設されたのが現存する駒沢球場(正式名称は駒沢オリンピック公園総合運動場硬式野球場)だ。
こちらの駒沢球場は前述のように都内の高校野球や、大学野球などのアマチュア野球に使用され、プロ野球(NPB)一軍で使用されたことはない。
なお、冒頭の球場玄関写真は、現存する駒沢球場の方である。


両翼91m、中堅120mと現在では手狭で、収容人員は1,319人と少なく、内野にしかスタンドがない。
スコアボードはLED式に改装されたが、選手欄がなく、ファンにとっては不便だ。
ただし、古い設備にも関わらずナイター設備はある。
フィールドはもちろん、内野は土、外野が天然芝だ。
僕が駒沢球場を訪れた時は改修工事中で使用されておらず、当然中には入れなかった。
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僕がなぜ駒沢球場を訪れようと思ったのかと言えば、故・ちばあきおが描いた高校野球漫画「プレイボール」を子供の頃に読んでいたからである。
「プレイボール」では夏の高校野球東京大会(当時はまだ東西に分かれてなかった)の使用球場として登場しており、どんな球場か見てみたいとずっと思っていた。
漫画で見ると、駒沢球場のスタンドは異様に小さく、外野スタンドはなくて高いフェンスが張り巡らせていた。
主人公の谷口タカオはこの駒沢球場で、高いフェンスを越えるホームランを放っている。
実際の駒沢球場を見たら漫画通りの球場だったので、ここで谷口がホームランを打ったのか、と妙な感慨にふけってしまった。




「プレイボール」および「キャプテン」を検証したサイト↓
http://neterlands.web.fc2.com/index2.html




現存する駒沢球場で行われた春季高校野球東京大会決勝