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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

想い出のフィールド(52)〜鳴尾球場跡地

鳴尾球場跡地(行った回数:1回)


現在の全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)の前身である全国中等学校優勝野球大会は、1915年(大正4年)に大阪府の豊中グラウンドで始まった。
当時はまだ阪神甲子園球場は存在しなかったのである。
しかし、収容人員が400人とあまりにも少なく大勢の観客が溢れ出し、また沿線の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚本線)は単線で1両編成のため、大勢の観客をさばききるのに3時間もかかってしまうという問題があったため、豊中グラウンドでの開催は僅か2年で終わってしまった。
(豊中グラウンドについてはこちらを参照されたい→http://d.hatena.ne.jp/aigawa2007/20110709/1310196863


そこで白羽の矢が立ったのが、阪神電気鉄道の沿線にあった鳴尾競馬場である。
阪神電鉄は競馬場に来る大勢の乗客をさばくのにも慣れていたし、競馬場の中ならグラウンドが二面とれる。
二面のグラウンドを使用すれば開催期間も短くて済み、当時は滞在費用が学校負担だったため、出場校にとっては助かったのだ。
こうして1917年(大正6年)の第3回大会からは、鳴尾競馬場の中に造られた鳴尾球場で行われることになった。
ちなみにこの頃には、春のセンバツはまだ行われていない。


鳴尾競馬場は、現在の甲子園駅から甲子園筋を真っすぐ約1.5km南下した突き当たり、かなり海に近い所にあった。
もっとも当時は甲子園駅は存在せず(甲子園球場がなかったのだから当然である)、甲子園筋の部分は枝川という武庫川の支流になっていた。
もちろん最寄り駅は鳴尾駅だが、距離で言うと現在の甲子園駅の方がやや近い。
現在の阪神タイガース二軍の本拠地、鳴尾浜球場よりもかなり西北の方になる。
現在では浜甲子園運動公園に鳴尾球場跡の記念碑が建っている。
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と言っても、そこよりもやや北にある、現在は浜甲子園団地になっている所が鳴尾球場の正確な跡地なのだそうだ。
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これが現在の地図に当時の地図を黒字で重ね合わせたもので、「場馬競」と書かれている所が鳴尾球場だ。
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鳴尾球場の説明はこちら。
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鳴尾球場での記念すべき初めての大会、第3回大会はいきなり波乱含みの大会となった。
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このトーナメント表を見て、奇異に感じないだろうか。
和歌山中、愛知一中、長崎中、明星商が一回戦に2回も登場している。
当時は不戦勝にすると試合数に差が出て不公平になると考えたのかどうかは知らないが、一回戦敗退の6校のうち抽選で4校を敗者復活とし、4校によるトーナメントを勝ち抜いた1校が準決勝進出となった。
この場合、抽選に漏れた2校が不運と言うべきか。
愛知一中は一回戦で長野師範に敗れたが抽選により復活し、4校による敗者復活トーナメントを勝ち抜き準決勝進出、準決勝では長野師範に勝った杵築中を破って決勝進出、そして遂に決勝で関西学院を破って優勝したのだ。
これが史上唯一の「全国大会で負けた学校が優勝」という珍現象である。
しかも決勝戦では6回まで1−0とリードされ、二死まで取られたところで突然豪雨が降り出し、ノーゲームとなった。
当時の規定ではあと一死を取ればコールドゲームで愛知一中は負けていたのに、まさしく恵みの雨となった。
そして再試合では延長14回の末1−0で関学を撃破、事実上二度も負けながら全国制覇を果たしてしまった。
結局、公平さを期するための敗者復活制度が、逆に不公平さが否めない結果となった。
当然「一回負けたチームが優勝するのはおかしい」という声が高まり、翌年は敗者復活制度は廃止されることになった。
ところが……。


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なんと第4回大会はトーナメント表すらない。
理由は右側に書いてある。
そう、地方大会は終わって出場校は決まっていたのだが、富山県魚津で勃発した米騒動が全国に飛び火し、阪神地方も米騒動の真っ只中になったため、全国大会は中止となったのだ。
2年も続けて珍現象が起こるとは、鳴尾球場には甲子園とは別の意味で魔物が棲んでいたのだろうか?


極めつけは第6回大会。
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一回戦で鳥取中に2−6で敗れた豊國中という学校があるが、エースの小方二十世投手はなんと法政大学の選手。
知人から「豊國中は投手さえ良ければ全国大会に出場できるので、力を貸してくれ」と言われて、小方投手は豊國中に編入したと言われているが、真相は定かではない。
小方投手は青山学院中出身で、豊國中とは縁もゆかりもなかったのだ。
小方投手が大学生とわかって大会本部は大騒ぎとなったが、当時の規定では校長が選手と認めさえすれば、試合に出場できたのだった。
しかし、結果は上記のように大学生が中学生に打たれるという情けない結果で、初戦敗退となった。
現在では年齢制限があり、大学生が選手登録されることはあり得ない。


鳴尾球場では第9回までの7年間行われたが、人気沸騰し続ける中等野球に対応できなくなった。
鳴尾球場のスタンドは木造で移動式の簡易スタンド、収容人員も少なかった。
二面あるグラウンドで、向こうのグラウンドの方が面白そうだとなると、観客同士が協力してエッサエッサとスタンドを移動していた、というエピソードもある。
いずれにしても、この程度のスタンドでは人で溢れてグラウンドになだれ込み、試合が中断することもしばしば。
所詮は急造の野球場でしかなかった。


いっそのこと、アメリカ大リーグにも負けないような東洋一の大球場を造ろう、という気運が阪神電鉄の中で高まった。
当時はまだタイガースは存在しなかったのに本格的なスタジアムを造るのだから、いかに中等野球の人気が高かったのかが窺い知れるだろう。
そして1924年(大正13年)8月に完成したのが甲子園球場である。
かくして記念すべき第10回大会は、新球場の甲子園で行われることとなった。
実はこの年の春に選抜中等学校野球大会、即ち現在の選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)が名古屋の山本球場で第1回大会が開催された。
当初の予定ではセンバツは全国持ち回り開催だったが、甲子園の完成により翌年の第2回大会からは夏と同じく甲子園を使用するようになった。
ここに春夏の甲子園の歴史が始まったのである。


結局、中等野球における鳴尾球場の役割は僅か7年間でその使命を終えたが、この間に中等野球の人気は不動のものになり、甲子園球場という日本で初めての本格的な野球場を造る要因となったことは間違いない。
短命に終わった豊中グラウンドや鳴尾球場を引き継いだ甲子園球場は、その歴史を90年近くまでに延ばし、さらに今後も生き続けようとしている。
しかし最初から海の物とも山の物ともわからない中等野球のために甲子園球場のような大スタジアムを建造することはありえず、豊中グラウンドや鳴尾球場が中等野球を育てたからこそ、日本が誇るべき甲子園球場が生まれたと言えよう。


今度、甲子園を訪れた際には、ぶらぶらと散歩がてら鳴尾球場跡地を訪れるのもいいだろう。
黎明期の高校野球を感じ取ること請け合いだ。