ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

1日違いで歴史が変わった

本の学校では、1月1日〜4月1日までに生まれた者を「早生まれ」と言い、前年の4月2日以降に生まれた者と同学年となる。
なぜ3月31日生まれまでではなく、4月1日生まれも早生まれに含まれるのだろう。
それは満年齢とは誕生日の前日に達するからで、例えば4月1日に生まれた赤ちゃんは3月31日で満1歳になるわけだ。
学校教育法では、3月31日までに満6歳に達した子供は小学校に入学しなければならないので、3月31日に満6歳を迎える最後の者は4月1日生まれということなのである。
普通早生まれというのは、前年に生まれた者に比べて1年近くのハンデがあり、幼年期では発育面で大きな差が出るので、親としてはなるべく避けたいだろう。
ましてや4月1日生まれとなるとなおさらで、できれば生むのを1日遅らせたいと思うのが人情だ。


4月1日生まれで有名なのが桑田真澄だ。
1968年に生まれた桑田は、1967年の4月2日以降に生まれた者と同学年ということになる。
桑田の母親は、1日遅らせて生ませてくれと医者に頼んだそうだが、それは無理だと断られ、残念ながら予定日通り4月1日に生んでしまったのである。
実際に、桑田は幼年期から小学校時代まで、ずっとコンプレックスに悩まされてきた。
しかし、結果的には4月1日に生まれたことが、日本野球の歴史に多大な影響を与えた。


1983年8月20日、日本中の目は甲子園のマウンド上にいる小柄な少年に釘付けとなっていた。
背番号11で弱冠15歳の少年が、史上初の夏春夏の3連覇を目指していた池田高校(徳島)に対し、見事な完封勝利を飾ったのである。
それだけではなく、ドラフト1位間違いなしと言われていた大会No.1の剛腕、水野雄仁から特大のホームランを放ったのだ。
その背番号11の少年こそ、当時PL学園(大阪)の一年生だった桑田である。


エースの水野に加え、”やまびこ打線”と呼ばれた強力打線を擁した池田は大会前からダントツの優勝候補と言われ、破竹の勢いで準決勝まで進出していた。
準決勝の相手はPLである。
今から見れば好カードのように思えるが、当時の下馬評は「池田圧倒的有利」であった。
名門PLと言っても、エースと四番が一年生では池田に勝てっこない、そう思われていた。
一年生の四番というのは、もちろん清原和博のことである。
準決勝の池田戦では清原は4三振と全く振るわなかったが、桑田は前述したように完封にホームランというワンマンショーで、PLは7−0と大勝した。
誰もが予想しなかったあまりの番狂わせに、試合終了後の甲子園はシーンとなってしまったほどだ。


清原は決勝の横浜商(神奈川)戦ではホームランを放ち、桑田も勝利投手となってPLが優勝、本格的なKK時代の幕開けを告げた。
特に桑田は、一年生で4月1日生まれということで、「史上最年少の優勝投手」ともてはやされた。
ちなみに池田には金山光男という三年生で4月2日生まれの選手がいて、桑田との年齢差はほぼ3年だ。
もし桑田が1日遅れで生まれていて、金山が1日早く生まれていれば、桑田は中学生で金山は大学生ということになる。
そんな両者が、甲子園という同じ土俵で対戦していたのだ(結果は4打数1安打で“中学生”桑田の勝ち)。


「タラ、レバ」は禁句とはいえ、どうしても想像してしまう。
もし仮に「仁」みたいな医者が未来からやってきて、桑田の出生日を1日遅らせることに成功していたら、野球界は今とは全く違ったものになっていただろう。
まず、この年では桑田はまだ中学生なので、当然PLには入学できない。
桑田のいないPLは、きっと池田には勝てなかったに違いない。
いや、それ以前にPLが甲子園に出場できたかどうかすら怪しい。
この年のPLの弱点は投手陣で、大阪大会の段階から一年生の桑田にオンブにダッコの状態だったのだ。
当然、池田が史上初の夏春夏3連覇を達成していた可能性が高いし、桑田自身も「池田戦が僕の人生を変えた」と言っているくらいだから、その「人生を変えた試合」が無くなったことになる。


そして何よりも「KKコンビ」は誕生しなかったのである。
「桑田がいたから清原がある、清原がいたから桑田がある」とよく言われるが、このことは当人同士も認めている。
PLに入学した時、身長172cmの桑田は186cmの清原を見て、「こんなでかいヤツには絶対にかなわん」と絶望したという。
さらに、中学時代に消し去ったはずの「4月1日生まれコンプレックス」が再び頭をもたげ、1年遅れで生まれなかったことを恨んだ。
でも頭を切り替えて、力では絶対にかなわないなら、清原のような打者を打ち取るにはどうすればいいか、研究するようになった。
そして、清原には絶対負けないように、人一倍の努力をするようになったのである。
いつの間にか桑田は、一年生ながらエースとしてPLのマウンドを守るようになった。


ところが、コンプレックスを抱いていたのは清原も同じだった。
「子供の頃からエースで四番」というオロナミンCのCMソングがあったが、清原も例外ではなく、PLでも当然エースで四番を務めるつもりでいた。
だが、桑田の投球を見て、投手としての自信は吹っ飛んでしまった。
スピードはともかく、ボールの伸びが清原とは全然違ったのである。
投手としての道を断念した清原は打者に専念し、暇さえあればバットを振り続けた。
規則を破って夜中にこっそりと室内練習場に忍び込み、打撃練習をしていたことすらある。
お山の大将である清原が、桑田がいなければこんな努力はしなかっただろう。
こうして三年間PLの四番に座り続け、甲子園通算13ホーマーの新記録、プロ入り後は歴代5位の通算525本塁打を記録し、名球会入りも果たした。
もし桑田がいなければ、希望通りPLのエースで四番になっていたかも知れないが、投手としても打者としても中途半端に終わっていた可能性もある。


PLではKKの一学年下の年代はエアポケット状態と言われ、KK世代が卒業して彼らが三年生になった年は、春はセンバツに出場したものの、一回戦で前年は11−1で大勝した浜松商(静岡)に1−8の大敗。
夏は大阪大会準決勝で敗れ、7季ぶりに甲子園出場はならなかった。
その一学年下の年代、いわゆる立浪世代には再び逸材が集まり、三年生時に春夏連覇を達成。
二つの黄金世代に挟まれた「KKの一つ下の世代」は肩身の狭い思いをしただろう。
実際に、この世代でプロ入りしたのは、ヤクルトにドラフト外で入団した霜村英昭ただ一人という、PLには珍しい学年だった。
しかも霜村はほとんどテスト生に近い形での入団で、結局はプロで一軍出場を果たせなかった。


そんな世代に桑田が入学すれば、桑田だけが飛び抜けた存在でライバルがいなかったに違いない。
そうなると、あの「努力の鬼・桑田」は誕生しただろうか。
一学年上には、怖い怖い清原先輩がいる。
ライバルとして張り合うなんて恐れ多くてできなかっただろうし、せいぜいカレーパンを買いに行かされるような関係にしかならなかったのではないか。


実はKK世代には、田口権一という192cmの長身投手がいて、桑田以上に未来を嘱望されていた。
結局は桑田の影に隠れていたが、同学年に桑田がいなければスクスク育ってPLのエースになっていたかも知れない。
田口がもしPLのエースとして甲子園で活躍すれば、プロ入りしてスケールの大きな投手になっていたことも考えられる。
そんな凄い田口先輩や清原先輩がいるのなら、彼らが卒業するのを待って、自分たちが三年生になるまで我慢しよう、なんて考えても不思議ではない。
ところが一学年下には立浪和義野村弘樹、橋本清、片岡篤史という猛者がいたので、最上学年になったからと言って安泰というわけにはいかなかっただろう。
ひょっとすると、プロで173勝した桑田真澄という投手は、存在しなかったかも知れないのだ。


今のプロ野球選手は、KKに憧れて野球を始めたという人は多い。
もしKKがいなければ、彼らは野球をしていなかったのかも知れないのだ。
そう考えると、よくぞ桑田は4月1日に生まれてくれたものだ。
4月2日生まれだったら、現在のプロ野球勢力図はどんな形になっていただろう。




1983年、第65回全国高等学校野球選手権記念大会準決勝、PL学園×池田