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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

想い出のフィールド(27)〜宮城球場

宮城球場(行った回数:0回)


東北地方最大の都市・仙台市
「杜の都」とも称されるこの市は宮城県の県庁所在地であり、人口105万人を数える政令指定都市である。
この地に新球団、東北楽天ゴールデンイーグルスが根を降ろしたのは2005年のこと。
本拠地球場をフルキャストスタジアム宮城とし、現在(2011年)その名称はクリネックススタジアム宮城となっている。
ところで、楽天が仙台に来る28年も前に、この球場を本拠地とした球団があった。
それが現在の千葉ロッテ・マリーンズ、当時のロッテ・オリオンズである。
ただし、上記の球場名はいずれもネーミングライツであり、当時の呼称は宮城球場だった。
県営宮城球場と表記されたこともあり、つまり宮城県が運営する球場である。


ロッテ・オリオンズが宮城球場を本拠地としたのは1973年から。
ただし、この時はまだ準本拠地扱いだった。
それには、複雑で悲しい歴史がある。


前年までロッテは南千住にあった東京スタジアムを本拠地としていた。
「光の球場」と呼ばれ、メジャーリーグの球場のように内外野総天然芝の美しい東京スタジアムは、かつてオリオンズを所有していた映画会社の大映が1962年に建設した球場だった。
いや、大映が建設したというより、大映社長でありオリオンズの名物オーナーだった「ラッパ」こと永田雅一が私財を投げうって建てた球場である。
完成当時のチーム名は大毎オリオンズ、1964年からは企業名を排し(「大毎」は大映と毎日新聞の合成)都市名を冠に付けた東京オリオンズとなった。
しかし、東京の要所に造った球場にも関わらず、成績不振のため客は入らず、経営状況は悪化した。
1969年、球団経営に行き詰まり、菓子メーカーのロッテに命名権を売却、チーム名はロッテ・オリオンズとなった。
つまり、ロッテ・オリオンズは最初、ネーミングライツによるチーム名だったのである。
そして翌1970年、オリオンズは見事にリーグ優勝を果たした。
優勝を決めた東京スタジアムに降り立った永田は乱入してきたファンに、監督や選手はそっちのけでいの一番に胴上げされた。
ファンに胴上げされたオーナーなど、後にも先にも永田だけだろう。
それだけ永田はオリオンズを愛していて、ファンもそれがわかっていたのだ。
ファンにもみくちゃにされた永田は号泣し、人生最高の至福の時を迎えた。


しかし、永田は優勝の喜びが吹き飛ぶような深刻な問題を抱えていた。
それは、斜陽産業となった映画界の不振により、多額の負債を抱えた大映の経営難である。
優勝した翌年の1971年、遂に永田はオリオンズを手放した。
正式にオリオンズをロッテに経営譲渡したのである。
大映の経営は火の車となり、とても球団を持てる状態ではなかった。
永田は記者会見で、前年とは全く正反対の意味で号泣した。


だが、球団を手放したくらいでは大映の経営悪化はもう止められなかった。
愛するオリオンズを失ってまで大映再建に尽力した永田も遂にギブアップ、球団売却の翌1972年に大映は倒産した。
この時、東京スタジアムの経営権は国際興業社主の小佐野賢治に移っていて、ロッテ側に球場の買い取りを求めたがロッテはこれを拒否。
高い金で球場を買ってまで球団経営はしたくなかったのだろう。
小佐野はこれ以上球場経営をする気もなく、買い手がつかなくなった東京スタジアムは取り壊しせざるを得なくなった。
球場建設から僅か10年、「光の球場」と謳われた東京スタジアムは一瞬の輝きだけ放って、その幕を寂しく閉じた。


本拠地球場を失ったロッテは、首都圏に球場を探したが、もうプロ野球を開催できる球場など残ってなかった。
それでも首都圏にこだわったロッテは保護地域をそのまま東京都に置き、後楽園球場、明治神宮球場川崎球場の空き日程に主催試合を組み込むこととした。
だが、それでも日程は半分以下しか埋まらず、残りの主催試合をどうするか頭を悩ませた。
本拠地球場を持たないジプシー球団・ロッテの誕生である。


朗報は北からやってきた。
宮城県がロッテを受け入れようというのである。
仙台市には県営宮城球場があった。
宮城球場は両翼91.4m、中堅122m、収容人員28,000人でプロ野球開催能力は充分にあり、ロッテ招聘に合わせてナイター照明も明るくなり、アクセス面でも中心地の仙台駅から仙石線に乗って宮城野原駅で降りると徒歩5分で着くという、便利な場所にあった。
ただし、保護地域が東京のままだったので、宮城球場は準本拠地という扱いだった。
ロッテはようやく”仮住まい”を手に入れることができ、1973年から宮城球場で多くのホームゲームを行うこととなった。


翌1974年からロッテは正式に宮城球場を本拠地球場にすると発表し、保護地域も宮城県に移管した。
ただし、野球協約では主催試合を本拠地球場で50%以上行わなければならないとなっているが、ロッテは首都圏開催を確保するため試合数を変更できるという特例を求め、これが承認された。
実際にこの年は、主催試合の65試合のうち宮城球場で行ったのは27試合で、41.5%だった。。
つまり、宮城球場は暫定本拠地となったのである。
この暫定措置が実は大きな曲者だった。


宮城球場が暫定とはいえ正式な本拠地になってからも、球団事務所や合宿所は東京にそのまま置き、選手たちも東京に住んでいて仙台に移住する者はいなかった。
つまり、宮城球場で試合をするときはホテル住まいとなったのである。
本拠地で試合するのに実態はビジターのような遠征と同じで、選手の疲労もたまった。
ホームの宮城球場で試合をするときは遠征で、日本ハム・ファイターズとビジターの後楽園で試合する時には家から通うという、奇妙な現象となった。
要するに、ロッテ球団は仙台に“定住”する気はさらさらなく、首都圏にいい球場ができればいつでも本拠地移転が可能なように準備をしていたのである。
それならば、宮城球場を暫定本拠地にした意味もわかろうというものだ。
現在の楽天と違い、ロッテは地域密着球団になろうなどとは、これっぽっちも考えていなかった。


皮肉にも、そんなロッテの本音が如実に表れたのが本拠地球場となった年の秋のことだった。
この年、パ・リーグ優勝を果たしたロッテは、読売ジャイアンツの9連覇を阻止したセ・リーグの覇者、中日ドラゴンズと日本シリーズを戦うことになった。
ところがロッテは、本拠地球場として宮城球場ではなく後楽園球場を使用したのである。
表向きの理由は宮城球場の収容人員が28,000人で、日本シリーズ規定の30,000人に満たないというものだったが、たった2,000人の差だったら交渉次第でどうにでもなるだろう。
事実、特例として暫定本拠地を認めさせたぐらいなのだから。
要するに、キャパシティが大きくて晴れの舞台である後楽園で日本シリーズを戦いたかったのである。
ロッテのこの措置に仙台市民は大いに失望した。
例えば、現在の楽天が日本シリーズに進出して、収容人員を理由に(現在のKスタ宮城の収容人員は23,000人)日本シリーズの本拠地開催は東京ドームにしますなどと言ったら、仙台市民は暴動を起こすだろう。
この時、失望はしたが暴動は起こさなかった仙台市民は、ロッテを冷ややかな目で見ていたのではないか。


だが、そんな仙台市民をさらに激怒させる事が起こった。
この年の日本シリーズで、中日を4勝2敗で破って見事日本一に輝いたロッテは、優勝パレードをなんと東京で行ったのだ。
あまりにも仙台をバカにしたこの仕打ちに、仙台市民は怒りと共に呆れかえっただろう。
こんな球団が地元住民に愛されるわけがない。


1978年、横浜スタジアムが完成し、川崎球場を本拠地としていた大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)がそちらに移転を発表すると、ロッテ球団は待ってましたとばかりに保護地域を神奈川県に移して、空いた川崎球場を本拠地として使用することになった。
東京から仙台に移転した時は、やれ準本拠地だ、暫定本拠地だとモタモタしていたロッテが、見事なまでの素早い対応である。
最初、ロッテは新品の横浜スタジアムを大洋と本拠地を共有しようとしていたようだが、これは虫が良すぎる話で大洋の猛反対に遭い、やむなく宮城球場よりも劣悪な川崎球場を本拠地とした。
だが、ロッテとすればそんなことはどうでもよく、親会社の宣伝効果が高い首都圏に戻ってくればそれで良かったのである。
過酷な移動を強いられてきた選手たちも、ようやくジプシー生活から解放されると、この首都圏回帰を喜んだ。
一方の仙台市民も、多少の移転反対運動はあったものの、ロッテの本音を早くから見抜いていたせいかあまり熱を帯びず、移転に大した障害とはならなかった。
市民に愛されない球団にも思わぬメリットがあったのである。
もっとも、川崎に移転したロッテは12球団で最も不人気の球団に成り下がり、不遇の時代を迎えるのだが……。


ロッテが去った後の宮城球場は、年に数回のプロ野球開催があるだけで、それ以外では地元のアマチュア野球の常打ち球場として使用されていた。
そんな宮城球場の運命を一変させる出来事が、ロッテが去った27年後に起こった。
それが2004年に勃発した球団再編騒動である。
大阪近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブが合併すると発表したのを皮切りに、球団削減案が一気に加速し、翌年からの1リーグ制移行が決定的となった。
だが、選手会やファンの猛反発に遭い、選手会がストまで起こしたために球団削減は回避され、翌年も2リーグ12球団体制で行うと決まった。。
ただし近鉄とオリックスの合併は承認されたので(合併球団はオリックス・バファローズ)1球団足りなくなり、IT企業の楽天の新規参入が認められて新球団が発足した。
楽天は仙台を本拠地にすると発表、本拠地球場は宮城球場となった。
仙台市はよくぞ宮城球場を残しておいたものである。


しかし、ロッテが去って以来ロクに改修工事もしていなかった宮城球場は、プロ野球本拠地球場としては問題があり過ぎた。
そこで大急ぎで改修工事が行われ、翌2005年の開幕時には見違えるような球場に生まれ変わっていた。
時代に合った両翼101.5mの広いフィールド、全面人工芝となりスコアボードもスタンドも大幅改修、球場内のサービスも最新式を取り入れた、どこに出しても恥ずかしくない個性的な球場となった。
工事期間が僅か半年とは思えない、見事な出来栄えだ。
海に沈みスクラップ状態になった旧日本海軍の戦艦大和が、イスカンダルの力を借りて宇宙戦艦ヤマトに生まれ変わったようなものである。


そんな改修前の宮城球場、つまりロッテの本拠地時代はほとんど憶えていない。
ロッテの試合など、関西ではテレビでほとんど放映しないから。
だが、たまに見たテレビで憶えているのが、宮城球場のスコアボードだ。
いかにも地方球場という感じなのに、スコアボードは電光掲示板だったのである。
当時、日本の球場でスコアボードが電光掲示板だったのは、宮城球場以外では後楽園球場だけだった。
都会の球場でも手書きスコアボードが当たり前の時代に、地方球場の宮城球場は電光掲示板を備えていたというのは、ある種のショックだった。
と言っても、宮城球場のスコアボードが電光式だったのは、得点の数字のみ。
つまり、チーム名や選手名などは手書きで、もちろんフリーボードのような電光掲示板はなかった。
漢字はもちろん仮名文字やアルファベットすら表示できず、数字のみ表記する、実に単純な電光掲示板だったのである。
全面電光掲示板の後楽園球場のスコアボードに比べれば、ずいぶん貧弱だった。
それでも、数字の部分が輝いていたので、当時は近代的なスコアボードと感じたものだ。
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全面改修された今となっては、当時の宮城球場を見ることはもうできない。
でも、楽天の本拠地として生まれ変わったKスタ宮城には、行くチャンスはまだまだある。
球界の都合に振り回され、数奇な運命を辿った杜の都のフィールドは、どんな奇跡を起こすのだろうか。



1978年、宮城球場で達成した今井雄太郎(阪急)の完全試合