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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

笑顔の似合う男

今日(3月6日)、和歌山県立箕島高校野球部監督として甲子園を沸かせた尾藤公(びとう・ただし)が膀胱移行上皮癌のため亡くなった。
享年68歳だった。


尾藤は箕島を甲子園で春3度、夏1度の計4度の優勝に導き、名監督としての誉れが高かった。
その内、1979年には史上6校しかない春夏連覇を達成した。
この6校のうち、公立高校は箕島以外にはない。


和歌山市からJR紀勢本線きのくに線)に乗り、南下して約30分、有田市箕島駅に着く。
すぐ西には紀伊水道が拡がるため漁業の町であり、また農業では有田ミカンが有名だ。
尾藤はその温暖な有田市で生まれ育ち、箕島高校に進学して野球部では四番・捕手を務めた。
卒業後は近畿大学に進学し野球部に入部するも、腰を痛めて中退。
その後は銀行に勤めるも、母校の箕島高校野球部を手伝っているうちに、OB会から監督に祭り上げられた。
1966年秋のことである。


2年後の1968年には春のセンバツ出場を果たし、ベスト4に進出した。
この時のエースが、後に名球界入りする東尾修(元・西武)である。
さらに2年後の1970年の春のセンバツでは、エースで四番のアイドル・島本講平(元・南海他)を擁し、遂に甲子園優勝を果たした。
好選手にも恵まれ、監督としてのスタートは順風満帆、いや幸運すぎると言ってよい。
監督就任3年目で甲子園出場(しかも準決勝進出)、5年目で全国制覇を成し遂げる監督など、そう滅多にいるものではない。


しかしその後、尾藤箕島は低迷する。
甲子園出場もままならず、出場しても初戦敗退が続いた。
全国でも有数の野球王国・和歌山でこの成績では、尾藤に対する風当たりは強かった。


尾藤は公立高校では珍しく、学校教師でも学校職員でもなく、野球部の後援会から任命された雇われ監督だった。
何よりも野球部の戦績が重視される。
ましてや、箕島の町は前述したとおり、漁師の町だ。
気が短くて荒くれ者の漁師たちは、すぐに結果を求める。
尾藤の立場は苦しいものとなり、後援会は尾藤をクビにしようとする動きを見せた。


その頃、阪急ブレーブスの監督をしていた旧制和歌山中学(現・桐蔭高校)出身の西本幸雄が、選手に対し監督不信任投票をした、というニュースがあった。
尾藤が尊敬する西本監督のように、自分も不信任投票を選手たちに行おう、と決めた。
結果、尾藤に対する不信任票が1票だけあったため、尾藤は潔く監督を辞任した。
1972年のことである。


その後、尾藤はボウリング場で働いていたが、尾藤を辞めさせても箕島の戦績は一向に上がらず、2年後には後援会から請われて再び監督の座に着いた。
そして1977年春、2度目のセンバツ制覇。
エースのサウスポー・東祐司は定時制に通いながら野球部の練習に参加するという努力家だった。


そして、尾藤箕島の最大のハイライトは、なんと言っても1979年だった。
春のセンバツに出場した箕島は、準決勝で前年夏の優勝校・PL学園、決勝で牛島−香川のバッテリーを擁する浪商(現・大体大浪商)という大阪の強豪2チームをいずれも1点差で振り切り、3度目の春の頂点に立った。
アンダースローのエース・石井毅(元・西武)、一番打者で捕手の嶋田宗彦(元・阪神)のバッテリーを中心としたチームは、ずば抜けたスターがいたわけではなかったが、尾藤にとって最高傑作のチームだっただろう。
堅い守りにバントを中心としたソツない攻撃、リードを奪われても決して諦めない粘りは、尾藤野球を象徴していた。


これまで、春は3度の優勝を誇っていたが、夏は優勝はおろか目立った成績を残せなかった。
「春には強いが夏に弱い箕島」というイメージが付きまとって、それを払拭するにはこのチームで春夏連覇を達成するしかなかった。
この年の夏、甲子園出場を果たした箕島は、三回戦で高校球史に残る星稜(石川)相手に延長18回の大熱戦を制し(試合内容は後述)、決勝戦では蔦文也監督率いる池田(徳島)を終盤の逆転スクイズで振り切り、当時としては史上3校目となる春夏連覇を達成した。


この年の甲子園での戦いぶりを見ると、力で圧倒した試合は全くなく、むしろ薄氷を踏む勝利の連続だった。
春の準決勝でのPL戦では9回まで2点ビハインドながら二死から同点に追い付き、延長10回でサヨナラ勝ちした(4−3)。
決勝の浪商戦では追いつ追われつの打撃戦を演じ、7回に逆転して8−7で勝って優勝した。
夏の三回戦では前述のように星稜に延長18回の末サヨナラ勝ち(4−3)、準決勝の横浜商(神奈川)戦では3−2の1点差勝ち、決勝の池田戦では8回に逆転して4−3で勝利した。
競り合いに滅法強い箕島には、メンタル面の強さが光る「心」、野球の基本に忠実な「技」、科学面で体調を万全に保つ「体」の、心技体が備わっていた。


このうち「技」については説明不要だろう。
打つことに関しては、打ちやすい球を打て、とだけ指導した。
打ちにくい球を打っても凡打になるだけだから、打ちやすい球を打った方がヒットになる確率が高い、といういたってシンプルな理論である。
ボール球だって、その選手が打ちやすいと感じたならば積極的に打て、と指示した。
守備に至ってはもっとシンプルだ。
「ゴロは前で捕るように!」としか言わなかった。
ゴロを前で捕る、ということは、バウンドが少ないうちに捕れ、ということであり、バウンドが少なければイレギュラーの確率が減って、エラーがしにくくなる、ということである。
これほどシンプルで、見事な守備理論は聞いたことがない。


「体」については、現在では常識だが当時としてはタブーと言われるような革命的な方法を採った。
当時は試合中には絶対禁止とされていた水分補給を積極的に行ったのである。
この頃は野球に限らずスポーツ界では練習中や試合中に水を飲むということは疲労を増長すると信じられ、試合中の水分補給は厳禁だった。
当然、尾藤も練習中や試合中の水分補給は一切禁じていた。
ところが、1976年の夏の和歌山大会の時、当時のエースの辻本昌広がバテてしまい、試合中盤に打ち込まれてしまった。
その試合をテレビで見ていた、名門の海草中学(現・向陽高校)出身で、当時は箕島の病院で内科医をしていたプロ野球経験者の楠本博一がバイクで球場に駆け付けた。
そして尾藤に「すぐに辻本に水を飲ませろ!」と命令した。
尾藤には何のことかわからなかったが、楠本のあまりの迫力に気圧されて、辻本に水を与えた。
すると途端に辻本は甦り、見事にこの試合に勝利した。
それまではスポーツ医学に関しては全く無知だった尾藤も、楠本には全幅の信頼を置き、チームドクターとして就任してもらった。
スポーツ医学に関して全く理解が無かった当時の野球界で、尾藤は科学的な野球に目覚めたのだった。


「心」の部分で大きな役割を果たしたのは、なんと言っても「尾藤スマイル」だろう。
「尾藤スマイル」が誕生したのは、エース・島本を擁した1970年の春のセンバツでの二回戦(一回戦は不戦勝だったため初戦)。
優勝候補の東海大相模(神奈川)と戦っている最中、エラーをしてベンチに帰ってきた選手が言った。
「監督の顔を見ていると、リラックスできません」
他の選手も続けた。
「監督がニコニコしてくれたら、100%の力を発揮できるんですけど」
選手たちに促されて「尾藤スマイル」が誕生した。
最初は、笑顔がぎこちないかな、と思っていた尾藤だが、東海大相模に6−2で勝ち、チームは勢いに乗った。
その後はあれよあれよと勝ち進み、決勝では大阪の北陽(現・関大北陽)に延長12回の末、5−4でサヨナラ勝ちし、甲子園初制覇を成し遂げた。
以来、箕島の甲子園のベンチでは「尾藤スマイル」が風物詩となった。
エラーをしてベンチに帰ってきた選手を「前へ出た結果のエラーだから仕方がない」と迎え、三振した選手には「思い切り振った結果だからいいじゃないか」と励ました。


この「尾藤スマイル」が選手をリラックスさせ、数々の名勝負を生み出したと言っても過言ではない。
では、甲子園における箕島名勝負三番を紹介しよう。




○1979年夏 第61回全国高等学校野球選手権大会三回戦 箕島×星稜


星稜 000 100 000 001 000 100=3
箕島 000 100 000 001 000 101=4
 (延長18回)


春夏連覇を目指す箕島は、北陸の名門・星稜(石川)と激突、がっぷり四つに組んだ勝負は1−1のまま延長戦になだれ込んだ。
延長12回に1点を勝ち越した星稜はその裏、二死無走者として箕島を追い詰める。
このまま敗れると春夏連覇の夢を断たれる箕島だったが、絶体絶命の中、打席に向かう嶋田宗彦は尾藤監督に言い放った。
「ホームランを打ってきます!(本当は「思い切り引っ張ってもいいですか?」と言ったらしい)」
宣言通り嶋田は、星稜の左腕エース・堅田外司昭から左翼ラッキーゾーンへホームランを放ち、起死回生の同点劇となった。
さらに試合は進み、16回表に星稜が1点勝ち越し、これで遂に試合が決まったかと思われた。
その裏の箕島の攻撃も既に二死無走者、打者の森川康弘が放った打球は一塁ファウルグラウンドに力なく上がった。
星稜の一塁手加藤直樹は落下点に入った。
これで万事休すかと思われたその時、加藤はこけてしまい、白球は無情にもファウルグラウンドを転々とした。
この年から内野ファウルグラウンドに人工芝が敷かれ、加藤はそれに足を取られて転んでしまったのだ。
九死に一生を得た森川は、堅田の速球を叩き、嶋田のホームランのVTRを見るかのように打球はレフトスタンドへ。
延長12回に続き、絵に描いたような同点ホームランで試合は再び振り出しに戻った。
3−3で迎えた18回裏、この回が無得点なら引き分け再試合になるという中、上野敬三(元・巨人)のサヨナラヒットにより、箕島が星稜を振り切った。
「高校野球史上、最高の名勝負」と言われた試合を制し、箕島は春夏連覇へ突き進んだ。




○1982年春 第54回選抜高等学校野球大会二回戦 箕島×明徳


明徳 000 000 000 000 21=3
箕島 000 000 000 000 22=4
 (延長14回)


この大会の箕島は優勝候補の呼び声高く、初戦に難敵中の難敵と言われた上尾(埼玉)を倒し、二回戦で立ちはだかったのが高知の新興校である明徳(現・明徳義塾)だった。
この時の明徳は甲子園初出場ながら、前年秋の明治神宮大会で優勝し、今センバツでも優勝候補の一角に名を連ねていた。
明徳の監督は高知商業で名監督と言われた老将・松田昇で、データ野球を駆使して虎視眈々と全国の頂点を目指していた。
試合は箕島のエース・上野山辰行と明徳のエース・弘田旬の投手戦で進み、9回を終わって0−0で延長戦に突入した。
均衡が破れたのは延長13回表、明徳がスクイズで待望の先取点を挙げた。
「してやったり、松田監督!」
とアナウンサーが叫び、さらにこの回もう1点追加して、2−0と明徳が絶対有利の状況となった。
その裏、箕島は二、三塁と一打同点のチャンスを迎えるが、既に2アウトと絶体絶命のピンチに追い込まれた。
しかしここで五番の泉秀和が左中間へ起死回生の2点タイムリーを放ち、土壇場で同点に追い付いた。
延長14回表、明徳はさらに勝ち越しの1点を奪うが、その裏の守りには箕島の得体が知れぬ影に怯えていた。
14回裏、箕島は一死満塁と逆転サヨナラのチャンスを掴み、杉山基浩が三塁線へ逆転サヨナラ2ベース。
箕島が甲子園で二度目の奇跡を起こした。
試合終了後、明徳の松田監督は「年老いた宮本武蔵(松田監督)が、若い佐々木小次郎(尾藤監督)に敗れた」と語った。
松田監督はこの年の秋、練習中のグラウンドで倒れてしまい、そのまま帰らぬ人となった。
享年77歳だった。




○1983年夏 第65回全国高等学校野球選手権記念大会一回戦 箕島×吉田


吉田 001 010 000 000 1=3
箕島 000 000 101 000 2=4
 (延長13回)


この大会は池田(徳島)の史上初となる夏春夏三連覇が達成されるか、ということに全ての興味が注がれていた。
打倒・池田の一番手と目されていたのが箕島である。
箕島には後にメジャーリーガーとなるエース・吉井理人(元・近鉄他)がいた。
さらに、池田のやまびこ打線にヒケを取らぬ黒潮打線を擁していた。
しかし、一回戦で無名校の吉田(山梨)に思わぬ苦戦を強いられた。
吉田の変則左腕エース・三浦憲の前に自慢の黒潮打線は沈黙した。
逆に箕島のエース・吉井は吉田に巧く攻められて、0−2と2点ビハインドで終盤を迎えた。
7回裏、箕島は主砲・硯昌己のソロホームランで1点差に迫る。
1−2と1点ビハインドで迎えた9回裏、箕島は一死三塁と同点の絶好のチャンスを迎え、打者は前の打席でホームランを打っている硯。
しかし、箕島はスクイズを敢行するも、ウエストされて硯はスクイズ失敗、三塁走者を殺されて二死無走者となる。
絶体絶命の箕島だったが、硯は起死回生の2打席連続ホームランを放ち、土壇場で同点に追い付いた。
延長戦に入り、13回表に吉田が1点を勝ち越すも、その裏の守りでは箕島に対する重圧がアリアリとわかった。
エラーが二つ絡んで箕島が同点に追い付き、角田宗也が左前サヨナラ打を放って熱戦にピリオドが打たれた。




水島新司ですら、あまりにもベタすぎて描けないような、嘘みたいな名勝負を演じ続けてきた尾藤監督率いる箕島野球。
「事実は小説よりも奇なり」を実践してきたのが尾藤であり、それを演じたのが箕島の選手たちだった。
そんな数々の奇跡を起こさせたのは「尾藤スマイル」だったのだろう。


(文中敬称略)