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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

想い出のフィールド(15)〜国技館(両国、蔵前)

国技館(両国、蔵前)行った回数:0回


存亡の危機に立たされている日本相撲協会
数々の不祥事により公益財団法人の認定が受けられないと、両国国技館も没収されるかも知れない。
両国にあるちゃんこ屋には行ったことがあるのだが、国技館は両国も蔵前も行ったことがない。
没収される前に両国国技館だけは行っておかねば。


僕が生まれた頃は両国国技館ではなく、蔵前国技館だった。
と言っても、元々国技館があったのは両国であり、両国こそが近代大相撲の故郷と言える。
ちなみに、現在の両国国技館がある場所は東京都墨田区横網(よこあみ)である。


両国国技館が完成したのは1909年。
以来、戦前の大相撲を支えてきた。
しかし、戦時中に空襲を受け、さらに敗戦によりGHQにより接収され「メモリアルホール」となった。


国技館を失った相撲協会は1954年、両国から隅田川を隔てた蔵前に国技館を建設、これが蔵前国技館として大相撲の新メッカとなった。
外観は純和風の独特の造りで、国技再興の意気込みが表れていた。
何しろ日本の国技の象徴だった旧両国国技館は青い目の外人に分捕られ、横文字の名称に変えさせられたのだから。
メモリアルホールはその後、日本大学が買い取り、日大講堂として再出発した。


戦後になるとプロレスやボクシングがブームとなり、相撲協会はこれら西洋格闘技にも蔵前国技館を貸し出した。
相撲協会に背を向けた元関脇の力道山が、日本で初めて本格的にプロレス興行を行ったのが蔵前国技館というのも、考えてみれば皮肉な話だ。
もっとも、プロレスやボクシングからの賃貸料があったからこそ、相撲協会の金庫も潤ったわけだが。
大相撲が年六場所になってからでも、一月(初場所)、五月(夏場所)、九月(秋場所)以外の9ヵ月も国技館を遊ばしておくよりは、他のスポーツに貸し出した方が得である。
特にプロレス興行で、日本プロレスが蔵前国技館で興行し、同じ日に国際プロレスが日大講堂で試合開催した時は「隅田川決戦」と言われたものだ。
外人レスラーから国技館は「スモウ・アリーナ」と呼ばれていた。


テレビで相撲を見ても、蔵前だろうが府立だろうがあまり変わらないので、蔵前国技館と言うとプロレスの方を思い出す。
1980年前後はプロレスブームだったが、意外なことに日本武道館は「キャパシティが大きすぎる」という理由で敬遠され、東京での大会場と言えば蔵前国技館がほとんどだった。
当時のプロレス界は3団体時代で、アントニオ猪木新日本プロレスが大ブーム、ジャイアント馬場の全日本プロレスは苦戦を強いられ、ラッシャー木村の国際プロレスは崩壊寸前だった。
1981年10月9日に全日本プロレスが創立10周年記念興行として蔵前4大決戦を行う、と発表した。
この頃の全日本プロレスは、年に1,2回ぐらいしか蔵前国技館を使えないほど観客動員に苦しんでいた。
しかもライバルの新日本プロレスが、その前日の10月8日に蔵前国技館で興行を行う、と突然発表した。
いわば後出しジャンケンのようだが、新日本プロレス新間寿営業本部長は
「蔵前を使えばニュースになる全日本さんとは違って、ウチはいつも使っているから」
と余裕しゃくしゃくで語った。
10月8日、新日本プロレス国際プロレスのエース・ラッシャー木村と猪木との一騎打ち、翌日の全日本プロレスでは新日本から移籍したタイガー・ジェット・シンと馬場がタッグマッチで戦うという、いずれも見逃せないカードで、蔵前戦争が火花を散らした。


その頃、日本相撲協会の春日野理事長(元横綱・栃錦)は、両国に国技館を建てたい、と考えていた。
蔵前国技館は老朽化しているし、日大講堂も既に取り壊されていた。
それなら大相撲の故郷、両国に国技館を造ろう、と決心した。
春日野理事長は建設会社と掛け合い、
日本相撲協会には150億円しかありません。どうかこれで新国技館を建てて下さい」
と頼み込んだ。
借金をして国技館を建設しても、後輩が苦しむだけだと春日野理事長は考えたのである。
これに対し建設会社側は、
「わかりました。社運を賭けてソロバン勘定を度外視しても、後世に残る立派な国技館を造りましょう」
と約束した。
こうして新・両国国技館は無借金で建設されたのである。


当初、建設会社の設計図では音響効果を考え、天井を張ることになっていた。
しかし、春日野理事長はこれを拒否した。
なぜ拒否したのか?
両国国技館にも天井がなく、鉄骨が剥き出しの「大鉄傘」という造りだった。
1939年一月場所の四日目、69連勝中の大横綱・双葉山が70連勝目を賭けて安芸ノ海と対戦したが、敗れて連勝記録がストップしたために大観衆は興奮の坩堝となり、大鉄傘を揺るがすほどの大歓声が上がった。
この光景を見ていた春日野理事長は、後輩の力士たちにも大鉄傘を揺るがすほどの凄い取り組みをしてもらいたい、という理由から、新・両国国技館にも天井を張らず、大鉄傘の造りとなった。


1985年に両国国技館は完成した。
それからは年3度の東京場所に加え、蔵前国技館と同様にプロレスやボクシングなどの興行も行われている。
日本プロレスが両国での初興行でジャンボ鶴田天龍源一郎×ザ・ロード・ウォリアーズのタッグマッチを行っている。
また新日本プロレスでは、全日本プロレスから移籍してきたブルーザ―・ブロディと猪木がシングルで戦った。


両国国技館はプロレスでもメッカとなったが、全日本プロレスは元横綱・輪島大士を入門させる際に相撲協会とトラブルになり、両国国技館を使用できなくなった。
日本プロレスは窮地に立ったが、それを救ったのは日本武道館であり、それ以降東京での大会場は武道館を使用するようになった。
輪島が引退して全日本プロレス相撲協会の間にわだかまりがなくなっても、馬場は両国国技館を使おうとはしなかった。
これは馬場が武道館に恩義を感じていたからで、「全日本と言えば武道館」というイメージが出来上がった。
馬場は死ぬまで、両国国技館で興行を行わなかった。


「本業」の大相撲で両国国技館を最も湧かせたのは、なんと言っても2001年夏場所の千秋楽だろう。
横綱・貴乃花は前日の取り組みで負傷し、本割りで横綱・武蔵丸に完敗し、優勝決定戦にもつれ込んだ。
優勝決定戦でも武蔵丸が圧倒的有利の下馬評の中、貴乃花が見事に上手投げで勝って優勝した。
当時の内閣総理大臣小泉純一郎は、
「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」
と最大級の賛辞を送り、内閣総理大臣杯を貴乃花に手渡した。


「ガチンコ横綱」と呼ばれた貴乃花両国国技館の大鉄傘を揺るがしたのに、八百長問題に揺れる大相撲はこれからどの方向に向かうのだろう……。