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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

想い出のフィールド(2)〜阪神甲子園球場

阪神甲子園球場(行った回数:多数)


f:id:aigawa2007:20110805224958j:image
連載二回目にして、早くも真打登場である。
だが、どうしても甲子園を二回目に持ってきたかった。
僕が生まれて初めて行った球場は日生球場だと第一回目で書いた↓
http://d.hatena.ne.jp/aigawa2007/20100919
そして二回目に行った球場こそが、阪神甲子園球場だったのである。


日生球場に行ったのが小学校三年生の夏休み、1976年(昭和51年)のことである。
その同じ年の夏休みに、甲子園に行った。
今度はプロ野球ではなく、夏の高校野球である。


準々決勝のPL学園×中京(現・中京大中京)の対戦だった。
PLは地元だったので、母親と姉との三人でPLの応援バスに乗って行った。
往復のバス代とアルプススタンドのチケット代が込みで、格安で観戦できる。
しかし、当時の僕はバスが苦手で乗り物酔いが酷く、道中のことは何も憶えていない。


バスが甲子園に着いて、乗り物酔いでフラフラになってバスから降りた瞬間、目の前の建造物に圧倒されてしまった。
蔦に覆われた巨大な外壁、それが甲子園球場だったのである。
少し前に見た日生球場とのあまりの違いに、言葉を失ってしまった。
これが同じ「野球場」なのか?と。
無機質なコンクリートがむき出しの日生球場と比べて、甲子園の蔦は圧倒的な存在感を示していた。
日生球場を見た後に、甲子園球場を見たから、余計にそう感じたのだろう。
これが逆なら、野球場とは甲子園のようなものが普通で、日生球場が貧相すぎると。
いや、日生球場は実際に貧相なものだったが、それでも当時の球場は日生とさほど変わらなかった。
つまり、僕が生まれて初めて体験した球場が甲子園だったならば、これだけ強烈な印象はなかったはずだ。
それが、甲子園以外の球場を先に見たために、甲子園の凄さがより深く脳裏に刻み込まれたのである。


アルプススタンドに入ると、甲子園の凄さがまた実感できた。
閑古鳥が鳴いていた日生球場のナイトゲームと違い、真夏の日差しを浴びた甲子園の満員のアルプススタンドはあまりに熱く、もはや同じスポーツが行われている場所とは思えなかった。
雰囲気が全く違う。
これが甲子園なのか。
全ての面において、甲子園に圧倒されていた。
乗り物酔いの後遺症がまだ続いていて、ブラスバンドの大太鼓が胸に響き、吐きそうになったものだ。
試合はPLが9−3で勝ったと記憶している。
PLのエースは中村という投手で、この試合でホームランも打った。
当時はまだ手書きのスコアボードで、ラッキーゾーンも存在した。


余談だが、バスには懲りてしまったので、帰りは電車で帰ってしまった。
母と姉と僕の片道のバス代、そして三人分の電車賃が無駄になったわけである。
さらに余談ながら、阿倍野のレストランでハンバーグを食べたのを憶えている。
帰りも応援バスに乗っていればハンバーグにはありつけなかったから、得した気分になっていた。
余計な出費になってしまった母親にとってはタマランことだっただろうが。
レストランの窓の外にはチンチン電車が走っていた(今から考えると、これは阪堺電軌上町線だ)。
本当に子供ってヤツは、どうでもいいことを憶えているものだ。


バスには懲りたので、翌年からは甲子園に行くときは電車利用になった。
地下の梅田駅から阪神電車に乗り込んで、電車が地上に出ると淀川に差し掛かる。
初めて淀川を見たときは、あまりの川幅の広さに、
「何、これ!海なの!?」
と驚いたものだ。
ともあれ、甲子園に行くときは阪神電車、という構図が出来上がった。
これは別に、オマリーとボーグルソン夫人に媚を売っているわけではない。

それでも阪神電車に乗って甲子園に近付くと、甲子園のナイター照明が見えてきて「甲子園に来た!」という実感が湧いたものだ。


子供の頃は、甲子園といえば阪神戦ではなく、高校野球で観に来ることがほとんどだった。
この件に関しては他の球場編で書きたいと思うのだが、高校野球では甲子園の外野席は当時から今でも無料だ。
当時の高校野球人気は、現在よりも遥かに上だった。
PL学園をはじめ、浪商(現・大体大浪商)や箕島など、地元の人気チームが目白押しだったせいでもある。
1979年の春のセンバツ一回戦で、PLと浪商が同じ日に登場した。
PLは前年夏の優勝校、浪商は牛島とドカベン香川のバッテリーで人気を博していた。
その日、僕は父親に連れられて甲子園に行ったが、当然の如く内野席とアルプス席は売り切れ。
無料の外野席に入らざるを得なかったが、ここでも押すな押すなの大行列。
翌日の新聞で知ったことだが、この時に将棋倒しになって小学生が死亡したそうだ。
試合は、PLが中京商(現・中京)に前年夏から三試合連続となる逆転勝ち、浪商は愛知にドカベン香川の125mホームランにより一回戦突破した。


初めて見た甲子園は前述の通り凄い威圧感があったが、反面「古い球場」というイメージもあった。
特にスタンド下は汚かったのを憶えている。
それが1979年には内装が綺麗に改装されて、バックスクリーンにメッセージボードが設置された。


かつては春のセンバツの頃は外野の芝生が枯れていたのだが、1983年に芝生の二毛作が成功、一年中緑に覆われた甲子園となった。
日本の芝生は冬には枯れてしまうというのが常識だったのだが、それを甲子園は覆してしまったのだ。
この技術は他の野球場や競技場にも応用され、冬には芝生が枯れていた国立競技場や花園ラグビー場も現在では冬芝が青々と茂っている。


1984年には、スコアボードが電光掲示板になった。
それまでの甲子園のスコアボードといえば、黒板にチョークのイメージだった手書きのものだった。
雨が降ってくれば字が消えてしまうというのも、何とも言えぬ情緒を醸し出していた。
甲子園を愛する多くのファンは、電光掲示板化には反対だった。
たかがスコアボードで、反対運動が起きてしまうのである。
しかし新装なった電光掲示板のスコアボードは、ファンを満足させるものだった。
「黒板にチョーク」のイメージを継続させるため、世界で初めて白色ブラウン管を採用。
さらに無機質なコンピュータ文字ではなく、従来通り明朝体で書かれた。
現在ではフリーボードがカラービジョンになったが、この基本コンセプトは全く変わらない。


1988年、後楽園球場が解体され、日本初めての屋根付き球場である東京ドームが開場した。
それ以降、日本各地でドーム建設がラッシュとなったが、実は甲子園にもドーム化の計画があったらしい。
何しろ甲子園が完成したのが1924年(大正13年)のことである。
老朽化を考えても、建て替えが検討されても不思議ではない。
折しも、バブル経済真っ只中の頃である。
古くなった甲子園をぶっ壊して、今はやりのドーム球場を建設しようとしたわけだ。
結局はバブルが弾けてこの計画は頓挫するのだが、もしこの計画が実行されていたらどうなっていただろう。
甲子園をぶっ壊すなんて、大暴動が起きたのではないか。


仮に甲子園をぶっ壊すまでにはいかなくても、ドーム球場化するとなると、甲子園を愛するファンは大反対運動を起こすだろう。
現在でこそドーム球場といえば、
「野球の醍醐味を剥奪する球場」
と野球ファンは認識しているが、東京ドームが開場した頃はそうではなかった。
ドーム球場こそ、近代野球に欠かせない最新鋭球場、と考えられていたのである。


だが、甲子園を愛する人々はわかっていた。
甲子園にドームなど似合わない、と。
1995年、阪神大震災が甲子園を襲った。
スタンドにはひび割れが起きて、改修が必要だった。
その際でも、甲子園を解体は見送られた。
甲子園の土台部分が生き残ったのだ。
その土台部分というのは、1924年(大正13年)に建造された基礎部分だった。
甲子園の土台は、71年後の激震にも耐えてみせたのである。


2008年からはリニューアル工事が始まり、2010年に工事が終わって甲子園は新たな時代に突入した。
1924年に建設された甲子園は当然の如く、日本に現存する最古の球場である。
アメリカで甲子園より古い球場といえば、1912年に完成したボストンのフェンウエイ・パークと、シカゴにある1914年開場のリグレー・フィールドだけだ。
あのメジャーリーグの象徴と言える1923年開場のヤンキー・スタジアムですら、2009年に解体されてしまった。
つまり、この時代に建設された球場で残っているのは、アメリカではフェンウェイ・パークとリグレー・フィールド、日本では甲子園球場だけで、それ以外の球場は全て取り壊されている。
どれも個性的な球場で、取り壊されるとなればファンは黙っていないだろう。
この三つの球場が未だに取り壊されず残っているのは象徴的と言える。
フェンウェイ・パークは、レフトの巨大な壁「グリーンモンスター」と、あまりに歪な左右非対称のフィールドが有名だ。
リグレー・フィールドの外野フェンスには、甲子園を思わせる蔦が覆われている。


一方の甲子園は、内野席を覆う大銀傘と、内外野のマンモススタンドである。
一層式にも関わらず4万7千人もの収容人員があるのは、世界でも類を見ないのではないか。
アメリカの球場は、内野席は二層式、三層式にもなっているが、外野席は低くなっている。
それに対し甲子園は、内外野ともに一層式で、しかも内野席と外野席がほぼ同じ高さだ。
このマンモススタンドが甲子園に独特の雰囲気をもたらすと言っても過言ではない。


ただ一つ、甲子園に注文があるとしたら、内野にも天然芝を植えて欲しい、ということだ。
実はリニューアル工事の段階で内野の芝生化も検討されたそうだが、高校野球の関係でメンテナンスに問題があり、今回は内野の芝生化は見送られたそうだ。


ただ、野球の国際化に向けて野球先進国たる日本の役割は大きなものであり、日本野球の象徴である甲子園がグローバル化するには内野の天然芝は不可欠なものだろう。
世界の主な球場には、内野に芝生がない球場は存在せず、人工芝も時代遅れとなっている。


高校野球による過密日程にも耐え得る芝生の研究もしているらしく、ぜひとも甲子園を内外野総天然芝球場にしてもらいたい。
日本野球の伝統を守りながら、時代に合わせて進化してきた甲子園だからこそ、世界に誇れる球場になることを信じている。



豪雨に見舞われながら、恐るべき水はけで試合再開に向けて整備が進む甲子園球場
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箕島×星稜 延長18回の激闘



伝説のバックスクリーン三連発