ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

背番号19×背番号30

1月17日、巨人と阪神のエースとして活躍した小林繁が逝去した。
享年57歳の早すぎる死だった。


小林を語る上で、どうしても外せない人物がいる。
江川卓
彼の登場により、小林は数奇な運命を辿るようになった。


小林は鳥取県由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)から社会人野球の全大丸を経て、1973年にドラフト6位で巨人に入団。
入団当初は目立たない存在だったが、独特のサイドスローで徐々に頭角を現し、4年目の76年には18勝を挙げ、第一次長嶋茂雄監督の初優勝に貢献。
翌年も18勝を挙げ沢村賞を獲得、V9時代を支えてきた堀内恒夫から完全にエースの座を奪い取った。


このまま順調に巨人のエースの座を守り続けるかに思われたが、78年のシーズン終了後に事件が起きる。
江川卓空白の一日事件。
この事件の背景をもう一度記してみる。


作新学園時代、怪物と呼ばれ甲子園で大活躍をした江川は阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)からドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。
当時のドラフトは現在と違い、あらかじめ各球団でクジを引き、1番クジを引いた球団から順番に好きな選手を指名していく、という方式だった。
したがって、阪急に先に指名された巨人は、江川を指名したくてもできなかったのである。
大学進学を表明していた江川がパ・リーグの阪急に行くわけもなく、当然入団拒否。


江川はその後、慶応大の受験に失敗したものの法政大に進学。
東京六大学歴代2位となる通算47勝を挙げ、卒業時にはドラフトの超目玉となった。
注目のドラフトでは1番クジを引いたのがクラウンライター・ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)、2番クジを引いたのが巨人だった。
当時、本拠地が福岡にあったクラウンは、九州出身の選手を指名すると予想され、2番クジを引いた巨人が交渉権を得ると誰もが考えた。
その頃のクラウンはパ・リーグの最下位をひた走り、身売りを繰り返していたお荷物球団。
超大物の江川にはとても手を出せないだろうと思われていたのである。
しかしクラウンは、敢然と江川を指名。
これで巨人が交渉権を獲得することは不可能になり、世間は騒然となった。


江川がどういう結論を出すかが注目されたが、パ・リーグの不人気球団など相手にもせず「九州は遠すぎます」という言葉を残し、入団拒否。
入団拒否は仕方がないにしても「九州は遠い」発言が物議を醸すことになる。
入団拒否をしたからには社会人野球に進むと思われたが、社会人に行くと2年間の拘束期間がある。
それを避けるためにアメリカ留学という道を選び、巨人が資金援助をした。


78年のシーズン終了後、福岡野球株式会社(クラウン)は西武に身売りを発表、本拠地も埼玉県所沢市に移転して新球団・西武ライオンズが誕生した。
資金繰りに困っていたクラウンと違い、唸るほどの札束があった西武グループは江川の交渉権を引き継ぎ、全力で入団交渉に当たった。
関東に本拠地を移転するのだから、遠すぎるという理由は通用しない。
しかし、西武は江川家に猛アタックをかけるも交渉は難航し、さらにアメリカまで飛んで江川本人を説得するも、江川は突っぱねた。
こうして西武の交渉権が切れ、運命の78年11月21日を迎えることになる。


前日、アメリカから帰国した江川は、父親から空白の一日について説明を受けた。
入団の交渉権はドラフト当日から翌年のドラフトの前々日までであり、翌年ドラフトの前日である78年11月21日は、江川はドラフトに拘束されない空白の一日だ。
したがって、その日に巨人と契約を交わせば、江川は巨人に入団できる、というものだった。


ちなみに交渉権がなぜドラフトの前日ではなく前々日なのかと言えば、ドラフトの前日まで交渉権があると、天変地異などがあったりしたときにドラフト当日、球団関係者が間に合わない可能性がある。
それを避けるために、一日の猶予を作ろう、という趣旨だ。
つまり、空白の一日とはどの球団からも拘束されていない日ではなく、どの球団にも交渉権がない、という日である。
空白の一日だから自由に契約ができる、というのは屁理屈でしかない。


そして21日の朝、巨人軍は江川と契約したと発表、日本中が騒然となった。
しかし巨人の身勝手な行動に対し世間の非難は集中し、鈴木竜二セ・リーグ会長も巨人を身勝手と批判、巨人と江川の入団契約を認めなかった。
大混乱の中、翌日のドラフト会議を迎えるが、裁定を不服として巨人はドラフト会議をボイコットという異例の事態にまで発展した。
この年からドラフト方式が変わり、どの選手でも自由に入札できるが、複数球団が競合した場合のみクジで交渉権を決める、という現在とほぼ同じ方式になった。
もちろん、江川もドラフト対象選手で、4球団競合の末、阪神が当たりクジを引き当てた。


江川問題は年内にはなかなか決着が着かなかった
普通なら巨人が折れて決着した方が、読売グループにとってもこれ以上のイメージダウンを蒙らずに済んだのだが、そうは問屋が卸さなかった。
江川本人の意思のみでこれだけ巨人入団に拘っていたことはあり得ず、これだけ泥沼化したのは政治的な圧力がかかっていたことに他ならない。
当時は巨人の試合のみが全試合全国ネットで中継され、高視聴率を保っていたから、江川が巨人に入団するだけで巨額の富が動く。
当時の政界にとっては、プロ野球=巨人だったのである。
大物選手が巨人に入団すれば巨額の金が動き、経済が潤うと考えても不思議ではない。
一方の読売は、江川に入団はして欲しいが、世間を敵に回すことは新聞社として有り難い状況とは言えない。
むしろ、たかが一選手である江川はサッサと諦めて、世間の批判をこれ以上浴びたくないと思っていたのではないか。
江川本人も、在京セ・リーグか、巨人に次ぐ人気を誇る阪神なら入団してもいい、と考えていたフシがある。
ただし、江川の父親はあくまでも巨人に固執していたようだが……。


空白の一日から1ヵ月後の12月21日、金子鋭コミッショナーは巨人の訴えを全面的に棄却した。
この金子裁定に対し、毅然とした態度だったと世間から喝采を受けた。
ところがその翌日、緊急実行委員会で金子コミッショナーは世間がひっくり返るような表明を露わにした。
それは、江川を阪神に入団させ、そのまま巨人にトレードする、というものだった。
この金子裁定に対し、各球団首脳は大紛糾、一斉に反対の立場をとった。
しかし金子コミッショナーは「賛否を問うてはいない。同意を求めている」として、これはコミッショナーからの「強い要望」であると強調した。
言い方を変えると「つべこべ言わず、ワシの言うことを聞け」という意味である。


年が明けて江川と阪神との間に入団交渉が何度も行われたが、なかなかまとまらなかった。
そしてキャンプ解禁日の前日、79年1月31日に、ようやく江川が阪神に入団、背番号は3となった。
しかしこの阪神入団は、即日に巨人にトレードされることを意味していた。
将来を嘱望された超大物・江川卓に見合う選手と言えば、巨人の押しも押されもせぬエース・小林繁しかいない。
小林も自分がトレード要員になるいうことは、ある程度覚悟していたという。


同日、巨人のキャンプ地・宮崎に向かうために羽田空港に姿を現した小林を巨人首脳が呼びとめ、巨人軍球団事務所で阪神トレードを告げた。
こうして三角トレードが成立し、巨人・江川、阪神・小林の入団が決定した。
世間からは江川は稀代の大ヒールとして大バッシングを浴び、逆に生贄にされた小林には同情を買ったが、小林は同情しないでくれ、と訴え続けた。
男なら当然である。
同情されて嬉しい男なんていない。
それでも、トレード通告された夜は、独りで大泣きしたという。
超大物とはいえプロの実績がない若造の代わりに、巨人軍のためにエースの座を守ってきた自分が、いとも簡単に放り出されたのである。
これほどの屈辱もあるまい。
日本球界随一の名門たる巨人軍は、エースよりもド新人を重宝するのか、と。


江川が巨人に入団した後、東京都内のレストランで偶然小林と顔を合わせたという。
江川の自伝漫画「実録たかされ」によると、江川が正子夫人と一緒にレストランに入ると、そこにたまたま小林が来ていて、江川がお詫びを兼ねて挨拶に行ったそうだ。
江川が謝罪の言葉を口にしようとすると、小林はそれを遮って
「わかっているから気にするな」
と言ったという。
江川はその言葉で小林に許してもらえたと思い、嬉しくなって正子夫人にそのことを伝えると、夫婦二人で泣いたという。


ところが、「実録たかされ」の作画担当をした本宮ひろ志が小林に取材したところ、このレストランで小林は江川から
「この店は僕のきつけだから、あまり荒らさないで下さいね」
と言われたそうだ。
この江川の態度を見て、小林は唖然としたという。
本当にコイツは反省しているのか、と。
江川にしてみれば、小林に許してもらえたと思ったので、冗談がつい出てしまった、というところだろう。
本宮によると、小林が「わかっているから気にするな」と言ったのは、
「ここではやめとけ。話がしたいのなら、日を改めて直接俺のところに来い」
という意味だったのだろう、ということだ。


79年、阪神に入団した小林は鬼神の如く投げ続け、22勝を挙げて最多勝、2度目の沢村賞も受賞した。
特に古巣の巨人に対しては8勝0敗という圧巻の数字を挙げ、アンチ巨人、アンチ江川の溜飲を下げた。
一方の江川はペナルティにより6月から登場、初登板の阪神戦ではKOされ、またもや阪神ファンが喝采した。
結局この年の江川は9勝10敗で負けが先行し、小林との差を見せつけられた。


しかし翌年、小林は前年ほどの成績を挙げることはできなかった。
前年の無理がたたり、肘を壊したのである。
この情報を聞いた巨人の長嶋監督は、小林の体をよく知るトレーナーを極秘で大阪に派遣し、治療に当たらせたという。
長嶋監督は江川入団の1年目、小林先発の時に江川を先発させなかった。
小林×江川の対決となれば、マスコミが必要以上にセンセーショナルに書き立てるからだ。
しかも、現在の力関係では、江川は小林に対して勝ち目は薄い。
それで、江川の1年目には敢えて小林との対決を避けたのだ。


小林が阪神に移籍して2年目、即ち江川がプロ入りして2年目、早くも両者の力関係が逆転した。
長嶋監督は江川×小林の直接対決を解禁し、江川はそれに勝った。
最多勝争いでも、小林は15勝、江川が16勝で、プロ入り2年目で早くも最多勝のタイトルを獲得した。


81年、江川は遂に20勝を挙げ、球界ナンバー1投手の名を欲しいままにした。
逆に小林は、年齢的な衰えを見せ始める。
82年の開幕戦、小林はサヨナラ暴投負けという屈辱を味わった。
この年、小林は試合後半に乱れるという悪癖が出て、当時の安藤統男監督に直訴している。
中三日で投げさせて欲しい、その代わり、自分に疲れの色が見られたら、6,7回で代えてもらっても構わない、と。


ローテーションが確立している現在では考えられない要求である。
しかし当時は、エースの我儘が通る時代であった。
だが、普通なら要求する条件が逆である。
つまり、完投するために、登板間隔を開けて欲しい、と。


当時のエースは、先発完投が普通だった。
それがエースのステータスでもあった。
でも、小林は敢えて完投を放棄し、登板回数に拘った。
その結果、この年はシーズン序盤から低迷していた阪神だったが、小林が登板間隔を縮めたことにより11連勝を記録して、首位争いに加わった。
だが、終盤は息切れして結局は3位、小林自身も11勝に留まった。


翌83年、小林は「15勝を挙げなければ引退する」と宣言した。
この年、小林は13勝に留まったものの、まだまだ阪神のエースとして期待されていた。
しかし、小林は宣言通り引退表明。
僅か31歳の若さで、プロ野球界を去った。


一方の江川は、81年の20勝の後、82年は19勝と相変わらずの球界ナンバー1投手ぶりだったが、小林が引退する83年には16勝と成績を落とした。
それでも16勝を挙げているのだからさすがと言えるのだが、この頃から球威が落ちだしていた。
実はこの頃、江川はアクシデントにより肩を壊していたのだ。
その後、江川はかつての球威を取り戻すことができず、小林とほぼ同じ32歳の若さでプロ野球界を去った。
引退の際、中国鍼騒動で世間を騒がせたのは、いかにも江川らしい幕引きと言えた。


小林繁 139勝95敗17S 防御率3.18 通算11年
江川卓 135勝72敗 3S 防御率3.02 通算 9年


かたや、ドラフト6位の叩き上げ。
こなた、三度のドラフト1位指名を受け、さらにルールまで捻じ曲げた超エリート。


そんな二人のあまりにも違う境遇にも関わらず、二人のあまりにも似通った通算成績に、運命の数奇を感じざるを得ない。