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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

阿部野橋の謎

以前、大阪駅と梅田駅の謎について少し触れたことがある。↓
http://d.hatena.ne.jp/aigawa2007/20091128/1259425388
大阪駅と名乗るのはJRだけで、私鉄や地下鉄はみんな梅田駅と表記する、という奇妙な光景が大阪では見られる、ということだ。


それと似たような駅が大阪にはある。
それが大阪の南の玄関口、天王寺駅だ。
天王寺駅は、環状線では大阪駅のトイメンにあり、駅の規模も大阪駅に匹敵する、大阪でも重要なターミナルだ。
天王寺駅にはJRでは環状線の他に関西本線(JR大和路線)と阪和線大阪市営地下鉄では御堂筋線谷町線、私鉄では近畿日本鉄道南大阪線阪堺電気軌道上町線という路線が集中する。


この中で、近鉄南大阪線だけが仲間外れだ。
近鉄南大阪線以外は「天王寺駅阪堺上町線は「天王寺駅前駅)」と名乗っているのに対し、近鉄南大阪線のみ「大阪阿部野橋駅」と、唯一「天王寺」が付かない駅名である。
大阪駅と梅田駅の場合と同様、旧国鉄(JR)との確執があったのだろうか。
しかし梅田駅のケースと根本的に違うのは、孤立しているのは旧国鉄ではなく、私鉄である近鉄ということだ。
大阪人が待ち合わせをするときにも「天王寺に集合」ということがほとんどで、「阿倍野に集合」ということはあまりない。
これも大阪駅と梅田駅の関係とは対照的だ。


ではなぜ、近鉄南大阪線のみ「大阪阿部野橋駅」と名乗っているのであろうか。
これは大阪の地理に詳しい人には比較的易しい問題で、要するに駅がある区が違う、ということだ。
JRの天王寺駅近鉄大阪阿部野橋駅は幹線道路を挟んで、向い合わせになっている構図だ。
この道路が天王寺区阿倍野区を分ける境界線になっており、JRの天王寺駅天王寺区近鉄大阪阿部野橋駅阿倍野区にある、というわけである。
東京では、目黒駅が目黒区ではなく品川区に、品川駅が品川区ではなく港区にあるという腸捻転現象は有名であるが、天王寺駅大阪阿部野橋駅の場合はそれに比べると非常にわかりやすい。


ところが、天王寺駅大阪阿部野橋駅の関係も一筋縄ではいかない。
そもそも、大阪阿野橋駅と阿野区では「」の漢字が違う、という謎が残る。
区名を尊重するのなら、「大阪阿野橋駅」にするはずだ。
だが、歴史を紐解くと、その謎が見えてくる。


大阪阿部野橋駅が開業したのは1923年(大正12年)のこと。
ただし、このときの駅名は「大阪天王寺」であり、その頃には既に旧国鉄天王寺駅は開業していた。
したがって乗り換え駅であることを示すために「天王寺」を名乗っても不思議はないのだが、翌年には早々と「大阪阿野橋駅」と改称する。
この改称には未だに疑問が残るが、やはり旧国鉄と差別化を図りたかったのかもしれない。
乗り換え駅とは言っても道一本を隔てているし、別の駅名にしても不思議はない。
梅田駅の場合と同様、お上への反骨精神があったのだろうか。


ではなぜ、「大阪阿野橋」ではなく「大阪阿野橋」だったのだろうか。
実は、当時の大阪阿部野橋駅があったのは「大阪府東成郡天王寺村阿野」という行政区分だったのだ。
つまり、大阪市には属していなかったのである。
一方の天王寺駅大阪市南区に属していた。
天王寺村は天王寺駅という巨大なターミナルが生まれたため、1897年に天王寺駅より北部分を大阪市に分割編入されたのである。
1925年(大正14年)、南区から分離して天王寺区が誕生した。
そして天王寺区が誕生した同じ年、東成郡の全地域も大阪市に編入された。
このときの区名は「住吉区」となった。
つまり、大阪阿部野橋駅大阪市住吉区の所属となったわけである。


太平洋戦争中の1943年(昭和18年)、住吉区が3区に分かれた。
その際、大阪阿部野橋駅付近の区を「阿野区」にするか「阿野区」にするかで揉めた。
天王寺村では阿野が正式地名であり、「阿野区」とするのが正当だろう。
しかし戸籍や土地台帳には「阿野」の地名が多く使われており、新区名は「阿野区」に決定した。
同じ場所にある地名で、読み方は同じなのに漢字が違う、というのは珍しいことではない。
「大阪阿野橋駅」は、いわばフライングしてしまった、ということか。
歴史的に見れば、「大阪阿野橋駅」が先で、「阿野区」は後ということになる。


「阿野」と「阿野」の謎についてはこれで理解できるが、もう一つの謎は、なぜ「大阪天王寺駅」「大阪阿部野橋駅」などと、わざわざ「大阪」を冠に付けるのか、ということだ。
阪急電鉄阪神電気鉄道などの私鉄でも「大阪梅田方面行きです」とアナウンスすることがあるが、これは梅田駅と大阪駅が同じ場所にあることを考慮して、乗客にわかりやすく伝えるサービスである。
ちなみに、阪急や阪神の梅田駅の正式名称は、いずれも「梅田駅」であって、冠に「大阪」は付かない。
しかし、「大阪天王寺駅」「大阪阿部野橋駅」は、ともに正式名称である。
もちろん、大阪阿部野橋駅は大阪駅から遠く離れている。
冠に「大阪」を付けることによって、乗客はかえって混乱するのではないか?


近鉄には大阪阿部野橋駅以外にも、「大阪」を冠に付ける駅があって、大阪難波駅大阪上本町駅がそうだ。
もちろん、この両駅は大阪駅からは遠く離れている。
近鉄はよほど「大阪」を冠に付けるのが好きなのかと思ってしまうが、この両駅と大阪阿部野橋駅では事情が根本的に違う。
今年(2009年)、阪神なんば線が開業し、近鉄奈良線との直通運転が開始された。
この際、それまで「近鉄難波駅」と名乗っていた駅が阪神電鉄との共同駅となり、「大阪難波駅」と改称された。
さらにこの機会に、「上本町駅」が「大阪上本町駅」に改称されたのである。
近鉄難波駅」の場合は、近鉄阪神電鉄の共同駅になるので、「近鉄」を冠に付けるのはまずい、というのはわかるが、「大阪上本町駅」の場合はわざわざ改称する必要はないのではないか、と思ってしまう。
だがこれは、伊勢方面の人たちに対する配慮ではないか、と思われる。
近鉄は賢島〜大阪上本町駅間の特急を走らせているが、伊勢方面の人にとっては「上本町行き」と言われてもピンとこない。
それが「大阪上本町行き」と表記すれば、この特急は大阪行きなのか、と理解できる。
もちろんこれは、やはり近鉄特急で大阪に行くことができる名古屋の人にも、上本町とは大阪にある駅名だ、と理解できる。
そこで「近鉄難波駅」を「大阪難波駅」と改称したのを機会に、「上本町駅」を「大阪上本町駅」と改称したのだろう。


だが、「大阪天王寺駅」「大阪阿部野橋駅」が開業したのは、大正時代のことだ。
なぜ、大阪駅から遠く離れた駅に「大阪」という冠を付ける必要があったのだろう。
一つ考えられるのは、当時の近鉄南大阪線の社名が「大阪鉄道」だったということだろう。
つまり、「大阪鉄道のターミナル」ということで駅名に社名の「大阪」という冠を付けた、ということだ。
これは現在でもよくあることで、前述の「近鉄難波駅」や「京成上野駅」など、枚挙にいとまがない。


しかし、ここでも一つの疑問が残る。
社名を冠に付けたのならば、他社と合併して大阪鉄道が近畿日本鉄道となった時に、なぜ「近鉄阿部野橋駅」に改称しなかったのか、という点だ。
大阪鉄道という会社は無くなったのだから、ターミナル名にいつまでも「大阪」を付ける必要はない。
いや、大阪鉄道が近鉄南大阪線になったのは1944年(昭和19年)だったのだから、阿倍野区は既に発足していたわけで、「阿倍野橋駅」にしていても良かったはずである。
もっとも、当時は戦争の真っ最中だったので、そんな余裕はなかったのかも知れないが。


その謎を解くカギは、近鉄南大阪線の歴史にある。
1896年(明治29年)3月に、南河内地方の柏原―古市間に河陽鉄道が開通する。
その1ヵ月後に古市―富田林間が開通、河陽鉄道は柏原―富田林間を直通運転した。
1896年と言えば、日清戦争勃発の2年後である。
しかし河陽鉄道は経営難のために解散、その後を河南鉄道が引き継ぐことになる。
河南鉄道はその後、富田林―河内長野間を開通させ、柏原―河内長野間を直通する、南河内地方の動脈となった。


しかし、このままでは田舎鉄道にすぎない。
そこで河南鉄道は大阪進出を目指し「大阪鉄道」と社名を変え、大幅な路線変更を企てたのである。
大阪進出にあたり、大阪鉄道は最も北にある終点の柏原駅から大阪に路線を延ばすのではなく、途中駅の道明寺駅から西へ転進して藤井寺、松原を通り、そこからさらに北上して天王寺を目指す、というルートを採った。
このルート変更により、近鉄最古の路線であり、開業以来動脈部分を担ってきた柏原―道明寺は、間に一つだけ駅があるだけの、道明寺線という全くのローカル線に成り下がってしまったのである。
さらに大和延長線が計画され、古市―久米寺(現・橿原神宮前)が開通、古市―河内長野も長野線という単なる支線になった。
河陽鉄道が発足した路線で本線格として生き残ったのは、古市―道明寺という僅かに一駅間のみである。


路線を変えてまで大阪進出を果たした大阪鉄道は、どうしてもターミナル駅に「大阪」の冠を付けたかったのではないか。
最初の1年は「大阪天王寺」と名乗ったが、実際には駅があった場所は大阪市には属していなかったので、やがて大阪市に編入されるのを期待して「大阪阿部野橋駅」と改称したのも想像に難くない。
それほどまでに「大阪」という大都市名にこだわったのだ。
ただ誤算だったのは「阿野区」ではなく「阿野区」になってしまったことだが……。。


ところで、江戸の八百八町に対して大坂の八百八橋と言われているが、阿部野橋は八百八橋とは関係がない。
川に架っている橋ではなく、掘割駅であるJR環状線天王寺駅の上を通る道路のことであり、正式名称は阿野橋である。
大阪市営地下鉄では全て「天王寺駅」だが、大阪市営バスの停留所は、阿倍野区天王寺区かいずれに属していようと、全て「あべの橋(正式名称は「阿野橋」)」という名前だ。
伊丹空港行きのバス停でもやはり「あべの橋(阿野橋)」である。