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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

カミカゼ・ミサワ〜その1〜

6月13日夜、0時前に関東遠征から自宅に戻った僕は、関東遠征のことをどんなふうにまとめようか、などと考えながらパソコンの電源を入れた。
しかし、僕の目に飛び込んできたのは、関東遠征が吹っ飛ぶような衝撃的なネットニュースだった。


三沢光晴さん、試合中に急死」


三沢光晴、享年46歳、職業プロレスラー。
中学生の頃からプロレスラーになることだけを考え、その夢を実現させたばかりか日本一のプロレスラーになった三沢は、プロレスラーのままこの世を去った。


1962年6月18日、北海道夕張市生まれ。
しかしクレジットでは長い間、埼玉県越谷市出身となっていた。
夕張で生まれた三沢は、1歳にもならないうちに越谷に引っ越した。
当然、北海道時代の記憶はない。


父親は夕張で炭鉱夫をしていた。
現在では多額の負債を抱えて財政再建団体になった夕張市は、三沢が生まれた頃に転換期を迎えていた。
日本のエネルギーは石炭から石油への移行期だったのである。
大夕張炭鉱の閉山は、三沢が生まれてから9年後の1973年だった。
埼玉に引っ越してからの三沢は父親について、「ときどき家に来る荒くれ者」というイメージしかなかった。
三沢が小学校に上がる前、両親は既に離婚していたのである。
三沢と、二歳上の兄は母親に引き取られた。
しかし父親は、ときどき酔っ払って家に来て、可愛がっていた兄を強引に連れ去ろうとしてしばしば母親と衝突していた。
三沢にとって、生まれて初めて殴りたいと思った相手が、我が父親だった。


三沢が高校生の時に母親は再婚するが、それまでは女手一つで三沢と兄の二人を育て上げた。
三沢は中学時代、器械体操に熱中するが、その頃に兄と一緒にテレビで見た「全日本プロレス中継」が、三沢の運命を決めることになる。


「こんな面白いスポーツが世の中にあるのか。これは見るスポーツではない、やるスポーツだ。俺は絶対、プロレスラーになる!」


なぜ三沢はそこまでプロレスに惹かれたのか。
他の格闘技には目が行かなかったのか。
三沢によると、プロレスには決まった技がない、だから面白い、という。
つまり、他の格闘技、たとえば柔道にしても相撲にしてもボクシングにしても、技は先人が開発したものばかりで、新しい技など生れっこない。
そんな競技の選手になっても、あらかじめ決まった技の反復練習に終始するだけだ、と。
ところがプロレスでは、自分でいくらでも技を開発することができる。
そんな自由さ、創造性に惹かれていった。


中学時代、担任の先生から希望進路を訊かれた。
当然、どこの高校に行きたいか、という質問である。
しかし三沢は、高校には行きたくない、プロレスラーになりたい、と答えた。
ビックリした担任は、ふざけてないで真面目に答えろ、と怒鳴った。
だが、三沢はふざけてなんかいなかった。
大真面目で自分の希望進路を伝えたに過ぎない。
やがて、三沢の真剣さがわかった担任は、とりあえず高校だけは行け、プロレスラーを目指すなら強いレスリング部がある高校がいい、と足利工大附属高校を推薦した。
三沢にとって頭が上がらない母親の強い希望もあって、中学卒業でのプロレス界入りは諦め、担任の勧めるまま足利工大附に進学、レスリング部に入部した。


足利工大レスリング部の練習の厳しさは他校でも有名だった。
他校のレスリング部部員から「お前ら、本当に大変だよな」と同情されていた。
合宿の早朝練習では、バスに乗せられて延々40分、山の中に連れて行かれる。
頂上に着くとバスから降ろされて「朝メシまでに帰ってこいよ」と言われて、監督だけを乗せたバスは走り去ってしまう。
バスから降ろされた部員達は、延々1時間半以上も走り続けなければ、永遠に朝食にはありつけない。


また、三沢にとってアマチュア・レスリングというのは退屈なものでしかなかった。
プロレスラーを目指して始めたレスリングなのに、自由に開発できる技などない。
三沢自身が忌み嫌った、先人が開発した技を反復練習するだけ、に他ならなかった。
キツイ練習、つまらない練習に耐えかねた三沢は、遂に脱走を試みた。
そして門を叩いたのは全日本プロレス
しかし応対した、当時は将来の全日本のエースと嘱望されていたジャンボ鶴田に「高校を卒業してから、また来なさい」と説得された。
母親からも高校に戻るように懇願され、先生も連れ戻しに来たため、三沢はそれに従わざるを得なかった。


だが、結果的には足利工大レスリング部に残ったのは三沢にとって吉だった。
アマレスとプロレスは違う競技とはいえ、プロレスの基礎技術はやはりアマレスである。
また、足利工大レスリング部では脱走した三沢も、全日本プロレスに入門してからは脱走を企てようとはしなかった。
自分の好きな道だったということもあるが、既に足利工大レスリング部の厳しい練習を体験していたということもある。
大抵の新弟子は、プロレスに入門すると、厳しい練習に耐えかねて脱走してしまう。
しかし、プロレス入りしてからの三沢は、脱走など考えたこともなかった。
実際に他の新弟子仲間から、一緒に脱走しよう、と誘われたが、脱走するなら勝手に行ってよ、俺は残るから、と三沢は答えた。


三沢にとって退屈でしかないアマレスだったが、それでもその素質を見る見るうちに開花させた。
高校三年時の国体で、三沢はフリースタイル87kg級で優勝。
プロレス入りするにはいいアピールとなった。
ちなみに、1年後輩には、後の盟友でありライバルともなる川田利明がいた。
川田も三沢と同様プロレス志望で、高校三年生時にはやはり国体でフリースタイル75kg級で優勝、高校卒業と同時に、三沢の後を追うように全日本プロレスに入門した。


高校を卒業した三沢だが、すぐに全日本プロレス入りが決まったわけではない。
大学のレスリング部や自衛隊からの誘いがあった。
特に自衛隊からの勧誘は熱心で、
「他の隊員のような過酷な訓練をする必要はなく、レスリングだけやって給料が貰えるんだ。それでいて、普通の隊員よりメシもいいんだぞ」
と言われた。
さらにアマレス出身者であるジャンボ鶴田も通して、自衛隊入りを熱心に薦められた。
しかし三沢は、これらの好条件を全て蹴った。
三沢とって、アマレスをやって給料をもらったりいいメシを食うことが目的ではなく、あくまでもプロレスラーになることが最大の目標だったのだから。


遂に全日本プロレス側も折れて、晴れて入門を許されることになる。
ただし、当時のプロレス界の状況では、前途多難のスタートだった。
当時はスーパーヘビー級が全盛。
日本プロレスでは、ジャイアント馬場が209cmでジャンボ鶴田が196cm、ライバル団体の新日本プロレスではアントニオ猪木が191cmで坂口征二が197cmと、190cm以上でなければ一流レスラーになれないというのが常識だった。
三沢は185cmと、一般の入門者に比べれば大型だったが、エース級のレスラーに比べれば小粒。
それでも、レスリングのオリンピック代表とか、大相撲の幕内経験者だったらエリートとして将来を約束されているが、たかが高校レスリングの国体優勝程度では、エリートとは言えず叩き上げの存在にすぎなかった。
現在のようにインディー団体が群雄割拠している時代とは違い、当時のプロレス団体は全日本プロレス新日本プロレス国際プロレスの三団体しかなかったのである。
そのうち国際プロレスは間もなく崩壊。
それだけプロレスラーになるというのは狭き門だった。


叩き上げの選手とは、ほとんどの場合はエリート選手の噛ませ犬である。
三沢も普通で行けば、噛ませ犬レスラーで終わる可能性が高かった。
しかし、当時のプロレス界は微妙に動き出していた。
そして、三沢の立場を助けたのが、三沢が所属していた全日本プロレスのライバル団体、新日本プロレスだったというところが面白い。


日本のプロレスは元々、1953年に力道山が興した日本プロレスから始まった。
戦後日本にプロレスブームを巻き起こした力道山は39歳の若さで死去するが、その遺志は弟子のジャイアント馬場アントニオ猪木に受け継がれる。
しかしこの両者は確執から袂を分かち、馬場が全日本プロレス、猪木が新日本プロレスを設立して、日本プロレスは崩壊した。


日本プロレス新日本プロレスは興行戦争で互いにしのぎを削ったが、1981年に新日本プロレスが一気に攻勢に出た。
それが初代タイガーマスクの登場である。
マンガ、アニメのヒーローがそのまま現実のリングに姿を現し、マンガやアニメ以上の動きをする。
しかもタイガーマスクは、ヘビー級とは程遠い170cm台の小さな体で、眩いぐらいの空中殺法を駆使する。
ファンの誰もが、今まで見たこともないタイガーマスクの動きに魅了された。
いや、タイガーマスクに魅入ったのはプロレスファンばかりではない。
それまではプロレスなど見向きもしなかった人たちも、タイガーマスクのファイトに注目したのである。
ヘビー級にはない、ジュニアヘビー級の魅力をファンに伝えたのがタイガーマスクだったのである。


タイガーマスクの登場により、新日本プロレスは全国どこの会場でも超満員、ゴールデンタイムでのテレビの視聴率も常に20%越えと大ブームを巻き起こした。
この被害をまともに受けたのがライバル団体の全日本プロレス
全国どこでも満員とは程遠い入りで、テレビ放映もゴールデンタイムから撤退を余儀され、倒産まで噂されるようになった。
この頃、プロレスブームと言われていたが、実際にはプロレス全体がブームだったわけではなく、新日本プロレスのみがブームだったのである。


三沢が全日本プロレスに入門したのは、まさしくタイガーマスクブームが巻き起こる頃の1981年3月。
そしてデビューを果たしたのは、その約5ヶ月後の8月。
これは、叩き上げのレスラーとしては異例の早さだった。
足利工大附で鍛えたレスリングの基礎と、持って生まれた運動神経がデビューの早さに繋がったのだろう。
当時のレスラーたちによると、三沢は教えたことをそのまますぐに実現できた、と証言している。
まさしく天才的なレスラーだった。


デビュー戦の相手は、先輩の越中詩郎
三沢と同じく、体は大きくはないが、センスの良さが買われていた同年代の先輩だった。
その後、三沢と越中の対戦は「全日本プロレスの前座黄金カード」と呼ばれ、ジュニアヘビー級の対戦で観客を魅了した。
83年4月、ルーテーズ杯争奪リーグ戦決勝で三沢と越中がテレビマッチで対決、越中が先輩の意地を見せてフォール勝ちしている。
この一戦で三沢と越中の名前がファンに植えつけられた。
ちなみに、三沢は越中に対し、前座時代は39戦全敗。
三沢にとって先輩・越中はあまりにも高い壁だった。


しかし、三沢と越中にはテレビマッチでいい試合をしたという褒美だったのか、翌年にはメキシコ遠征のチャンスを与えられた。
メキシコでのリングネームは、三沢が「カミカゼ・ミサワ」、越中が「サムライ・シロー」であった。
メキシコのプロレスは「ルチャ・リブレ」と呼ばれ、空中殺法が主流である。
三沢はルチャ・リブレの実力を「笑っちゃうようなレベル」と評していた。
身長160cm台のレスラーがクルクルクルクル(空中殺法)、そればかりだ、と。
そんなレベルだから、三沢と越中はたちまちスターダムにのし上がった。
特に評価が高かったのが、実績はあるが地味な越中よりも、空中殺法のできる三沢だった。
当時のメキシコのプロモーターはこう語る。


「今までのメキシコでの最も有名なハポネス(日本人)はサトル・サヤマ(佐山聡初代タイガーマスク)だったが、ミサワはサヤマを超える素質の持ち主だった。ミサワが空中殺法をしたとき、天井からぶら下がった照明器具にミサワの背中が当たってしまった。あんなレスラーは見たことがない」


メキシコでスターダムにのし上がりかけていた三沢と越中だったが、二人の運命を大きく変える国際電話が、三沢の元にかかってきた。
電話の主は、全日本プロレスの総帥、ジャイアント馬場だった。
航空機のチケットを手配するから、すぐに帰国しろ、と。
三沢にはなんのことか全くわからなかった。


当時、日本のマット界は大波乱が起こっていた。
タイガーマスクによる大ブームを巻き起こし、ライバルの全日本プロレスを瀕死の状態に追いやってプロレス界を制圧しかけていた新日本プロレスが、空中分解の危機を迎えたのである。


ことの発端は、新日本プロレスブームを巻き起こした張本人であるタイガーマスクだった。
初代タイガーマスク佐山聡タイガーマスクになる気など全くなかったが、映画の制作のため1試合だけタイガーマスクを被って試合をしてほしい、と新日本プロレスから頼まれてタイガーマスクとして試合をした。
ところが、この試合が大ブームを巻き起こし、1試合のみという約束が、その後はずっとタイガーマスクとしてファイトせざるを得なくなった。
佐山は元々、タイガーマスクのような客寄せパンダには興味がなく、純粋な格闘技志向だったのである。
そのため、空手や関節技などの格闘術を身につけようとしていた。
しかし、状況がそれを許そうとはしなかった。
タイガーマスクはあくまでタイガーマスク、いつまでもヒーローでなければならない、と。


しかし、そんなタイガーマスク、いや佐山聡を激怒させる事件が起こった。
佐山は結婚をしようとしていた。
ところが、新日本プロレスは結婚式に、素顔を晒さずにタイガーマスクを被れ、本名を明かしてはならない、と言ってきた。
タイガーマスクは正体不明の謎のヒーローだ、そんなファンの夢を壊してはならない、と。


冗談ではない、佐山は激昂した。
企業の論理ではそうかも知れないが、だからと言って人生最大のイベントである結婚式でなぜ素顔と本名を隠さなければならない?
第一、花嫁側の親類にはどう説明すればいいんだ?
一試合でいいからタイガーマスクになってくれと頼んでおいて、人気が出ると素顔になるな、だ。
佐山は新日本プロレスの体質に嫌気がさし、突如失踪してしまう。


初代タイガーマスク・佐山の失踪により、新日本プロレスは上へ下への大騒ぎとなった。
この事件により、黄金時代を築いてきた新日本プロレスにクーデターが起きた。
反乱分子たちは、アントニオ猪木社長、坂口征二副社長、新間寿営業本部長に対し、退陣要求を迫ったのである。
このとき、猪木が興した会社「アントン・ハイセル」が10億とも20億とも言われる多額の負債を出し、新日本プロレスがいくら儲かっていてもその利益はザルで水をすくうようにアントン・ハイセルの負債補填に流れ、いくらレスラーたちが頑張ってもギャラアップは望めなかったのである。


そしてクーデターにより猪木、坂口は降格、新間は退社せざるを得なくなった。
しかし、新生新日本プロレスの新体制も上手くはいかず、間もなく猪木、坂口はそれぞれ社長、副社長に復帰するが、新間は干されたままだった。
そこで新間はトカゲのシッポ切り団体ユニバーサル(第一次UWF)を設立するが、猪木の裏切りに遭い、新間はユニバーサルからも追われる立場となる。
第一次UWFには佐山聡も参加するが、やがてエースの前田日明との確執でUWFからも離れ、独自で設立した格闘技・シューティングを発展させていくことになる。


新日本プロレスのクーデターはこれだけにとどまらず、タイガーマスクと共にブームを巻き起こした「維新軍」のエース、長州力が新団体「ジャパンプロレス」を設立し、全日本プロレスと業務提携していくことになった。
日本プロレスジャパンプロレスの業務提携により、全日本プロレスは形勢の悪さを一気に逆転した。
そして、このままいけば新日本プロレスを潰すことも可能だ、と。


折しも、猪木と「タイガーマスク」「タイガーマスク二世」の原作者である梶原一騎との確執がニュースになっていた。
それが、梶原一騎による「アントニオ猪木、監禁事件」である。
蜜月と思われていた猪木と梶原の関係がこじれた瞬間だった。
こんな背景もあったのか、全日本プロレスタイガーマスクの肖像権を得た。


なにもわからずに、メキシコから帰国した三沢に対して、馬場がマスクを手渡した。
「これを被ってみろ」
と。


誰もいない洗面所で虎のマスクを被り、
「ああ、これで俺は二代目タイガーマスクになるんだ」
と自覚したのだという。
三沢にとって、それは期待よりも不安の方が大きい変身だった。
タイガーマスクになるということは、絶対に失敗は許されない、ということだった。
実際に初代タイガーマスクは、決して失敗をしないレスラーだった。
タイガーマスクになるということは、どうしても初代と比べられてしまう。
上手くやって当たり前なのだ。
梶原一騎との契約書には「登場の際、ポーンとトップロープの上に立つこと」というのがあったという。
三沢は実際に失敗したことはなかったが、トップロープからこける夢を何度も見た。


初代タイガーマスクは空中殺法だけではなく、空手も駆使していた。
そのため、三沢にも空手の特訓を余儀なくされた。
しかし、三沢はこれがイヤでイヤで仕方がなかったという。
「なんで初代のマネをしなければならないんだ?漫画のタイガーができればいいじゃないか」
と。
極真空手の「猛虎」こと添野義二による空手の特訓が続いた。
そして、添野の空手特訓に付き合う男がいた。
足利工大レスリング部の後輩である川田利明である。
川田は今後のプロレスに活かそうと、空手の蹴りを習得しようとした。
添野から三沢には「川田のように蹴ってみろ!」と檄が飛んだ。


三沢の心残りは、メキシコに残した先輩、越中詩郎の存在だった。
実績では自分より上の越中先輩よりも、タイガーマスクとしての素養があるという理由だけで、自分が出し抜く形になってしまった。
日本でのタイガーマスクとしてのデビュー前に、三沢は再びメキシコへ飛んだ。
越中に挨拶をするためである。
越中も、今後の全日本プロレスでの立場がどうなるか、わからないほどバカではなかった。
後輩の三沢が二代目タイガーマスクになる、新日本プロレスから長州力たちが全日本プロレスに参戦する。
大した実績もない自分が、全日本プロレスにいるポジションはない、越中はそう悟った。
そして越中は、手薄になった新日本プロレスへの移籍を決意する。


三沢光晴の二代目タイガーマスク変身は、先輩の越中詩郎と、後輩の川田利明に、大きな影響を与えた。


―つづく―

(文中敬称略)