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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

メインストリート

二日続けてラグマガネタ。


ラグビーマガジン3月号の小林深緑郎氏のコラム「トライライン」で、かつての近鉄花園ラグビー場のことが書かれていた。
これを読んで長年抱いていた二つの疑問が一挙に解決した。


まず、花園ラグビー場の最寄駅名がなぜ「東花園」なのかという疑問である。
「東花園」駅より一つ西寄りには「河内花園」駅がある。
近鉄にとっては目玉となる花園ラグビー場の最寄駅名をこの「(河内)花園」駅とし、現在の「河内花園」駅を「西花園」駅とした方が、鉄道会社としてはメリットがあると思われる。
恥を忍んで告白すると、僕が初めて花園ラグビー場へ行ったとき、間違えて「河内花園」駅で降りてしまった。
言い訳を許してもらえるなら、誰でも「河内花園」と「東花園」では、花園ラグビー場は「河内花園」にあると思うだろう。
実はこのときの僕は、花園ラグビー場の最寄駅は「東花園」駅と認識していたのだが、「河内花園」駅に着いた途端にパニックに陥ってしまい、慌てて降りてしまったのである。
だが、満員電車の中で降りたのが僕一人だけで、駅名の看板を見ると次が「東花園」駅だったので、間違いに気付いたわけだ。


小林氏のコラムによると、東花園駅は元々ラグビー開催時の臨時駅だったそうだ。
それがやがて正式な駅になり、現在では待避可能な島式2面4線の立派な準急停車駅である。
つまり、元々「河内花園」駅があって、その東隣にラグビー用の臨時駅ができて、その臨時駅が正式な駅に昇格して「東花園」駅になったというわけだ。
ちなみに河内花園駅は対面2面2線の各駅停車しか停まらない駅であり、現在では東花園駅の方が「格上」である。
現在の東花園駅は高架工事中で仮の駅舎が西寄りに造られており、河内花園駅はすぐ傍に見える。


もう一つの疑問は、東花園駅から花園ラグビー場に通じるメインストリートのことだ。
現在の東花園駅は前述したようにやや西に移動しているが、このメインストリートは旧駅前広場のすぐ近くまで伸びている。
このメインストリートにはセンターラインがあり、車が対面通行できる立派な道路だ。
当然、東花園駅から花園ラグビー場に行くには最も便利な道だが、僕が初めて花園ラグビー場に行ったとき、この道路を歩いた記憶が全くないのだ。


僕が初めて花園ラグビー場に行ったのは1983年だったと思う。
当時来日していたオックスフォード大が全同志社と対戦したのが花園初体験であり、ラグビー生観戦初体験である。
この年が正しいなら、全同志社大八木淳史平尾誠二が現役学生で、林敏之がOBとして出場していたはずだ。
このとき、オックスフォード大とケンブリッジ大が一緒に来日していて、全早慶明同と対戦するツアーだったと思う。
それ以外でも、日本でオックスブリッジ戦が行われたり、オ・ケ大連合×日本代表という、現在では考えられないマッチメイクがあった。
たしか日本チームは全敗で、世界との差を痛感した。
もちろん、この日の全同志社もオックスフォード大には勝てなかった。


前述したように、この日僕は間違えて河内花園駅で降りたが、すぐに間違いに気付き次の電車に乗り直して、東花園駅で降りた。
ところが改札口を出て駅前広場に行っても、ラグビー場らしき姿はどこにも見当たらないのである。
それまでの僕は、関西の野球場には何度も足を運んでいた。
阪神甲子園球場大阪球場藤井寺球場日本生命球場
当時の関西の球団は全て鉄道会社が保有していたため、駅の目の前に球場があった。
上記では記されていないが、僕が行ったことがない阪急西宮球場も然りである。
特に甲子園は、阪神電車に乗って甲子園駅に近づくと、あのナイター設備と名物の蔦が見えてきて本当にワクワクしたものだ。


甲子園が高校球児の聖地なら、花園は高校ラガーマンの聖地である。
当然、東花園駅前から花園ラグビー場が威風堂々と姿を現すものだと思っていた。
ところが、そんな建物はどこにも見当たらない。
ラグビー場にどう行けばいいのかすらわからない。


幸い、電車を降りた大勢の客がゾロゾロ歩いていたので、彼らについて行けばラグビー場に行けるだろうと、彼らの後ろをついて行った。
随分狭い道を潜り抜け、結構な距離を歩かされ、ようやく花園ラグビー場に辿り着いた。
そこにあったのは、甲子園とは比較にならない貧弱な正面玄関だった。
収容人員3万人を誇る現在とは違い、当時の花園ラグビー場は1万2千人程度のキャパシティしかなかったのである。
駅から離れているうえ、こんな規模のグラウンドでは駅から見えないはずだ。
その上、上記のような広いメインストリートを歩いた記憶は全くない。


近鉄花園ラグビー場が開場したきっかけは、秩父宮雍仁親王による一言だったと言われる。
1928年(昭和3年)、大阪軌道(現在の近畿日本鉄道=近鉄)に乗車した時、大軌の専務に、
「この辺りは随分土地が余ってるねえ。ラグビー場でも造ったらどうだい」
と言ったそうだ。
さすがラグビー好きの親王、空いた土地をラグビー場として活用しては、と提案したのである。
もちろん、東京の秩父宮ラグビー場は親王の名を冠したものだ。
そして2度目に大軌電車に乗車して花園近くを見た時、
「まだラグビー場はできてないね」
と言い、
「親王は本気だ」
と慌てた大軌の上層部がラグビー場建設を計画したという。
こうして翌年の1929年(昭和4年)、突貫工事で花園ラグビー場は完成した。
上記では「1万2千人程度のキャパシティ」と書いたが、当時のラグビー場としては驚天動地の東洋一のスタジアムだったのである。
花園ラグビー場が高校ラガーマンの聖地になるのは、それからずっと後の1963年(昭和38年)のことだ。
皇室の人物による鶴の一声でできたスタジアムながら、日本では珍しい私企業のラグビー場として聖地であり続けたのだから、近鉄関係者の努力は尊敬に値する。
惜しむらくは、花園ラグビー場ができた当初は親王が言うように「土地が余っていた」のだから、もう少し駅の近くにラグビー場を造ってもらいたかったのだが……。


現在では東花園駅からメインストリートを歩いて花園ラグビー場まで行くが、前述したように1980年代前半でそんな道を通った憶えはない。
せせこましい道を延々と歩いて行った記憶しかないのだ。
しかし、ラグマガの小林氏のコラムを読んで、その謎が解けた。
メインストリートができたのは、近年のことだというのである。
僕が初めて花園に行った当時はメインストリートなどなく、せせこましい道を歩くしか花園ラグビー場に辿り着くことはできなかったのだ。
昔からあったと思っていた道が、結構新しくできたメインストリートだったのか。


現在のメインストリートでは、ラグビーグッズ店や花ラグ饅頭店が軒を連ねている。