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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

センバツエレジー

今日、第81回選抜高等学校野球大会の出場校32校が選ばれた。
http://www.sanspo.com/baseball/highschool/senbatsu81/team.html
センバツ史上初の早慶同時出場(早稲田実と慶應)があったり、甲子園で延長18回の死闘が伝説となった箕島が18年ぶりの出場を決めるなど、なかなかバラエティに富んだ顔ぶれとなった。
ただ、21世紀枠を除いて秋季大会上位校が順当に選ばれており、サプライズな選考はなかった。


そもそも、センバツとはどんな趣旨で始まった大会か。
日本一を決める大会なら、夏の甲子園だけでもよい。
センバツが始まったのは1924年(大正13年)のこと。
1915年(大正4年)には朝日新聞社主催で、全国中等学校野球優勝大会(現在の全国高等学校野球選手権大会夏の甲子園)が既に始まっており、それに対抗する形で毎日新聞社主催による選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会春の甲子園)が開催された。


夏の大会の場合、一つの地区に複数の強豪校があっても、出場校は一校だ。
仮に全国大会に出場すれば優勝候補に匹敵する実力があると思われているA校という学校があっても、同じ地区に同じぐらいの実力があるB校に地方大会で敗れたら、A校は全国大会に出場できない。
逆に大した実力はなくても、同じ地区には弱い学校しかなければ、その学校は全国大会に出場できる。


この不公平をなくすため、大正13年に第1回センバツ大会が催された。
出場校は8校、過去1年間で最強と認められた学校が集った。
第1回優勝校は高松商(香川)。
当時の高松商は全国レベルにあると言われながら、四国大会ではいつも松山商(愛媛)に敗れていたため、夏の全国大会に出場できなかった。
それが春のセンバツを制して、その実力を全国に見せつけたのである。


ただし、第1回のセンバツは甲子園ではなく、名古屋の八事山本球場で行われた。
まだ甲子園球場は完成していなかったのである。
当初の予定では、センバツは全国各地を持ち回りで開催するはずだった。


その年の夏に甲子園球場が完成、夏の全国大会が初めて甲子園で開催された。
日本初の本格的な野球場である甲子園は、観客5万人の収容能力があった。
数千人のキャパシティしかなかった日本の球場では考えられない広さのスタンドである。
当初、大きすぎるスタンドが危惧され、閑古鳥感が漂うのではないかと思われた。
ところが、大会が始まって地元校が出場すると大観衆が我も我もと甲子園に押し掛け、今後10年は出ないだろうと思われていた「満員御礼」の看板が出た。
関係者が想像していた以上に、中等野球(現在の高校野球)の人気は高かったのである。


キャパシティの大きい甲子園で満員になるのなら、ロクに球場設備の整っていない各地を回る必要はないと思ったのか、翌年の第2回からセンバツでも甲子園で開催されることになる。
ここに「春夏の甲子園」の歴史が始まるわけだ。


センバツの趣旨からして、同一地区からの複数出場はもちろん、同一県からの複数出場もいとわなかった。
たとえば、1936年(昭和12年)には、当時レベルが高かった愛知県から中京商(現・中京大中京)、享栄商(現・亨栄)、愛知商、東邦商(現・東邦)の4校が選ばれた。
また、戦前は春先という季節がら、寒冷地の学校は実力が発揮されないと考えられ、北海道、東北、北陸という寒冷地からはほとんど選ばれなかった。
その代わり、当時日本の植民地だった温暖地の台湾からの出場校が何校かあったのは運命の皮肉か。
ちなみに、夏では台湾の他に朝鮮、満州からの出場校があったが、戦前には春夏とも沖縄からの出場校はない。


戦後になると、寒冷地もセンバツの選考枠に含まれるようになった。
地区割りの基準校数も大体決まって、選考委員による公平な審査によりセンバツ校が選ばれるシステムになった。
そのシステムの大凡は過去に書いたことがあるので、そちらを参考にされたい。
http://d.hatena.ne.jp/aigawa2007/20080830


しかし、「本当に強いチームを”選抜”する」というセンバツ本来の趣旨と、「秋季大会の結果を重視せよ」という平等主義が時としてセンバツ選考に物議を醸すことがある。
上記日記にも書いてあるとおりセンバツとは「招待大会」であり、夏の選手権とは異なり予選がないのが特色なのだから、秋季大会の結果にとらわれる必要はないというのが個人的な意見だ。
とはいえ、予選ではないがセンバツ選考の「重要参考資料」たる秋季大会で好成績を残したのに、センバツに選ばれなかったのは不公平だ、という気持もよくわかる。
だが、センバツの趣旨を考えるとそれも仕方がないことだ。
過去にもあっと驚くセンバツ選考がいくつかあったが、その例を紹介しよう。


○1956年(昭和31年)第28回大会
前年秋の東海大会の覇者は岐阜商(現・県岐阜商)だった。
その岐阜商に一回戦で敗れた中京商(現・中京大中京)は本来ならセンバツには選ばれないが、「優勝した岐阜商とは互角の実力がある」と評価されて、異例の選出となった。
本番のセンバツでは決勝戦で再び中京商と岐阜商が激突、中京商が東海大会での雪辱を果たして見事に優勝した。
選考委員の「正しい目」が中京商のセンバツ制覇を生んだわけである。


○1964年(昭和39年)第36回大会
前年秋の中国大会一回戦で敗れた下関商センバツに選ばれた。
前年の春夏の甲子園で二年生エースの池永正明が快投乱麻のピッチングで下関商を春優勝、夏準優勝に導いたからである。
当然、このセンバツでも池永のピッチングが期待されたが、残念ながら初戦敗退した。
ちなみに、優勝したのは徳島海南で、エースは後の名プロゴルファーになるジャンボこと尾崎将司。
高校卒業後、池永と尾崎は共に西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団するが、尾崎は芽が出ずプロゴルファーの道へ、池永は西鉄のエースになるも「黒い霧事件」に巻き込まれてプロ野球界を永久追放になった。


○1970年(昭和45年)第42回大会
前年秋の東京大会は日大三が1位、帝京商工が2位、堀越が3位だった。
ところが、センバツに選ばれたのは日大三と堀越で、2位校の帝京商工は選ばれなかった。
帝京商工には失火事件があり、「実力・校風・品位」を建前とするセンバツ出場校にふさわしくない、と判断されたのである。
帝京商工はこれを不服とし、「3位校の堀越が選ばれて2位校の当校が選ばれないのはおかしい」と、大阪地裁に提訴するという前代未聞の行動に出た。
しかし、大阪地裁は帝京商工の訴えを却下した。
大阪地裁の見解は「センバツは招待大会であり、主催者がセンバツにふさわしいと思われる学校を招待し、学校側が招待に応えた時に出場権が発生する」というものだった。
裁判所でも「センバツは招待大会」という認識をしたわけである。


○1975年(昭和50年)第47回大会
九州代表としてセンバツに選ばれた福岡県の門司工は、期待を胸に甲子園で堂々と入場行進を行った。
ところが、その直後に不祥事が発覚。
開会式に参加しながら出場辞退という、異例の事態となった。
代わりに九州地区の補欠校だった長崎県の佐世保工が急遽センバツ出場、開会式に出ないセンバツ出場校となった。
ちなみに、不祥事を起こした門司工の生徒は、野球部とは関係ない一般生徒。
しかし、センバツ出場条件である「校風と品位」がネックになったのである。
現在では「野球部と関係がない生徒による非行で出場辞退は厳しすぎる」という声が高まり、学校自体に問題が起きても野球部に係わりがなければ出場辞退にはならないというのが通例になっている。


○1984年(昭和59年)第56回大会
この年のセンバツ選考は各地で大荒れに荒れた。
関東大会ベスト4の東海大甲府センバツ選考から漏れ、ベスト8の法政二がセンバツに選ばれた。
法政二は期待に応え、センバツで1勝を挙げた。


四国大会では、前年センバツ優勝の池田がベスト4になり、センバツは当確と思われた。
しかし、前年度の三年生部員による不祥事が発覚、センバツ推薦取り消しとなった(「出場辞退」と「推薦取り消し」の違いについては、上記日記を参照)。
池田に代わるセンバツ校を探しても、四国大会出場校に池田ほどの実力を備える学校はない。
そこで四国大会には出場していないが、徳島大会準決勝で池田と大接戦を演じた徳島商に白羽の矢が立った。
たとえ四国大会に出場していなくても、その実力は池田に匹敵すると判断されたのである。
しかも徳島3位校であったため推薦校に選ばれていたわけで、センバツ選考には支障がない。
そして四国大会不出場ながらセンバツに選ばれるという、異例の事態となった。
徳島商センバツで1勝を挙げ、夏の徳島大会では池田を破って堂々と甲子園に出場している。


極めつけは近畿の出場校だろう。
この年は夏に甲子園制覇を果たした一年生コンビの桑田、清原を擁するPL学園が圧倒的な強さで秋の近畿大会を制した。
この年の近畿のセンバツ出場枠は7校で、PL学園を含む5校まではすんなりと決まったが、残り2校の選考が難航した。
候補に挙がったのが大阪の近大付と三国丘、滋賀の高島だった。
このうち、地域性を考慮して近畿大会ベスト8の高島が選ばれた。
残る一つのイスを大阪の近大付と三国丘が争った。
近大付は大阪3位ながら近畿大会ベスト4。
一方の三国丘は大阪2位で近畿大会二回戦敗退だった。
普通で考えるなら近大付を無条件で選ぶだろう。
しかし、その試合内容が問われた。
大阪大会準決勝で近大付はPL学園と対戦し、1−12の大敗を喫する(大阪大会準決勝ではコールドの規定はなし)。
それでも大阪3位で近畿大会に出場し、見事ベスト4に進出した。
近畿大会ベスト4はセンバツ当確である。
だが、近畿大会準決勝で再びPL学園と対戦し、2−11の七回コールドでまたもや大敗した。
「春は投手力」とよく言われる。
試合経験が浅い春の段階では、投手力が高いチームが活躍する、という意味だ。
その点で言えば、同じチームに二度続けて二桁失点をする近大付の投手力には相当問題があるのでは、と思われたわけだ。
一方の候補である三国丘は、大阪大会決勝でPL学園と対戦し、0−1と敗れたとはいえ大接戦を演じた。
特に、清原を中心とするPLの強力打線を僅か1点に抑えた三国丘の松田投手に対する評価は高く、桑田に次ぐ近畿ナンバー2の投手だ、と言われた。
結局、三国丘は近畿大会二回戦敗退ながら、「PL学園との対戦に両校の投手力の差が出た」と判断されて、近畿大会ベスト4の近大付を抑えてセンバツに選ばれた。


○1988年(昭和63年)第60回大会
前年秋の近畿大会では近大付、上宮、北陽(現・関大北陽)がベスト4を占めるという「大阪上位」の大会となった。
当時のセンバツには一つの都道府県からの出場は2校までという不文律があり、学制改革が行われて「中等野球」が「高校野球」になって以降、一つの都道府県から3校以上がセンバツに選ばれた例はない。
特にこの年の北陽は大阪3位であり、近畿大会でもベスト4止まりだったから、近畿大会の決勝に進んだ近大付と上宮に比べるとふるい落としやすい材料が揃っているから、北陽はセンバツには選ばれないだろうと思われていた。
ところがフタを開けてみると、大阪から近大付、上宮、北陽の3校が満場一致でセンバツに選ばれた。
理由は「今年の大阪はレベルが高く、また1都道府県から3校が選ばれてはならないという規定もないので、順当に選んだ。今後も1都道府県から3校選ばれることもありうる」というものだった。
この後、1995年では兵庫から、2001年は茨城から、センバツに1県3校が出場している。


○2000年(平成12年)第72回
近畿大会で初戦敗退した智弁和歌山が実力を買われてセンバツに選ばれた。
センバツ出場した智弁和歌山は見事に準優勝。
さらに、夏の甲子園にも出場して全国制覇を果たす。
智弁和歌山は選考委員の「正しい目」をこれ以上ない形で証明した。


○2002年(平成14年)第74回大会
前年秋の関東大会ベスト4の太田商がセンバツから漏れた。
太田商は群馬大会で優勝、関東大会でもベスト4だっただけに、センバツは当確と思われていた。
しかし、群馬2位の前橋が関東大会準優勝ということでセンバツに選ばれたために、地域性からか太田商はセンバツに選ばれなかった。
さらに、関東大会ベスト8だった水戸短大付が選ばれただけに、太田商関係者は怒り心頭だった。
太田商は太田市立ということもあって太田市長が高野連宛てに不服申し立ての質問状を送った。
もちろん、センバツ裁定は覆らなかった。