大阪市内から紀州街道と呼ばれる国道26号線を南下し、堺市内からそのまま真っ直ぐ旧26号線(府道34号線)を走って岸和田市内に入ると、天守閣が見えてくる。
それが岸和田城だ。
岸和田と言えば清原和博の故郷、そしてだんじり祭りが有名だが、岸和田城の存在は意外に知られていない。
大阪府下で天守閣がある城は大阪城と岸和田城しかないのに、もったいない話である。
かくいう僕も岸和田城には行ったことがなかったのだが、先日初めて岸和田城の天守閣に登ってみた。
駐車場は一応あるのだが、観光地にするには貧弱だ。
城の存在があまり知られていないのも、PRにあまり力を入れていないからかも知れない。
城内に入るのは無料だが、天守閣に登るには300円が必要だ。
天守閣内は3階まであり、展示室が備えられているが、写真撮影は禁止。
もちろんエレベーターなどなく、先日行った名古屋城に比べると随分小振りである。
だが、3階から四方を見渡すことができ、泉州地域が一望できるのでなかなかの絶景である。
そしてこちらが天守閣から見た城下町風建物。
でも、展示物が少ないのであっという間に観終わり、天守閣を出た。
敷地内も大阪城や名古屋城に比べると圧倒的に狭い。
こちらが本丸にある「八陣の庭」。
本丸を出て二の丸公園に行った。
ここには「心技館」という武道場があった。
岸和田城は別名「猪伏山縢(ちきり)城」あるいは「蟄亀利城(千亀利城)」と呼ばれ、岸和田は和泉の国の城下町として栄えてきた。
地理的にも大坂城と和歌山城のちょうど中間地点にあり、政治的にも重要な場所だったと言える。
いつごろ建てられたかは詳しいことはわかっていないが、戦国時代には既にあり、羽柴秀吉が紀州の根来寺征伐のために岸和田城を根城とした。
江戸時代には岸和田藩を治める城となり、徳川御三家のひとつである和歌山城の監視という重大な役目もあったようだ。
しかし、1827年(文政10年)に落雷により天守閣が焼失、資金難のため天守閣が復活することなく、明治維新を迎えた。
戦乱ではなく、カミナリのために天守閣がなくなったというのも、実に不運な城である。
宇宙世紀の住人達は、カミナリのことを敵の新兵器だと思い込んでいたが……(「機動戦士ガンダム」参照)。
廃藩置県により、岸和田藩は僅か4ヶ月間とはいえ「岸和田県」になったことがある。
その後まもなく堺県に編入されたが、もしそのまま岸和田県が存続していると、岸和田城跡のすぐ傍に県庁が置かれた可能性も充分にある。
岸和田城に天守閣が復活したのは意外にも最近で、戦後の1954年(昭和29年)のことだ。
現在の天守閣は三層だが、江戸時代の絵図によると五層であり、現在よりも10mほど高かったと思われる。
その規模は岡山城にも匹敵し、もし江戸時代の落雷がなくて天守閣が健在、さらに岸和田県が存続し岸和田市が県庁所在地になっていれば、岸和田城は近畿屈指の観光地になっていたかも知れないのだ。
ちなみに、天守閣が何のために再建されたかと言えば、観光以外の目的があった。
その真の目的は、なんと図書館。
天守閣の様相をした図書館というのも豪華だが、逆に言えば実にもったいない使い方とも言える。
現在では図書館としては利用されていないが、岡山城並みの城が図書館というのも、何となく切ない感じがするのは僕だけだろうか。