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ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

永遠の四番打者〜清原和博の高校時代(5)

夏の甲子園が終わり、全日本高校選抜チームが結成され、清原は今回ようやくメンバーに選ばれた。
前年度のアメリカ遠征ではなく、韓国遠征である。
韓国では日本の高校野球は注目されており、当然桑田と清原もよく知られていた。
全日本の四番にドッカと座った清原だったが、徹底マークに遭ってしまい、結局ノーヒット。
もっとも、韓国での不振は徹底マークだけが原因ではなく、初の海外遠征に浮かれて遊びまわってしまったからという説もある。
全日本チームの監督はPLの中村監督。
本来なら優勝校である取手二の木内監督が指揮を執るはずだったが、同じ茨城の新興校・常総学院に転任が決まっていた関係で、中村監督が監督を引き受けることになり、それが清原にとっては不運だった。
当然のことながら、清原の不甲斐ない成績に中村監督は激怒し、清原はこってり絞られた。
せっかくPLの研志寮から抜け出したのに、韓国でも中村監督の顔色を窺わなければならない。
しかし、チームの方は桑田の活躍もあって韓国に2勝1敗で勝ち越し、日本の面目を保った。


日本に戻るとそのまま秋季大会に突入。
大阪大会を制し、二年連続で秋季近畿大会優勝を狙ったPLだったが、決勝戦で東洋大姫路(兵庫)に0−1の完封負け。
東洋大姫路のサブマリン・豊田次郎(元・オリックス)が前年度以上と言われたPL打線を翻弄した。
「PL打線は技巧派投手に弱い」という定評を図らずも証明してしまったわけである。
翌春のセンバツでは、必ずしも技巧派だけが弱いわけじゃないことを露呈してしまうのだが……。
ただ、この試合で清原は豊田から全部シングルとはいえ三安打。
前年度までは、調子がいいときはホームランを量産するが、調子が狂うと途端にヒットが出なくなるという脆さがあったが、夜の打ち込みの成果からか確実性も出てきた。
秋の打率も五割を超え、一層恐ろしい打者になって春を迎えようとしていた。


春のセンバツ一回戦、PLは浜松商(静岡)と対戦。
PLの楽勝が予想されたが、なぜか清原は燃えていた。
というのも、実は浜松商のエース・浜崎淳とは中学時代に対戦していたのだ。
浜崎は浜松シニアのエース、清原はもちろん岸和田シニアの四番でエースである。
全国大会決勝で浜松シニアと岸和田シニアが戦い、5−4で浜松シニアが勝って日本一になった。
清原は浜崎に投げ負けたわけである。
打つ方でも三打数一安打だったが、ホームランは打てず、清原にとっては完敗だった。
甲子園でその雪辱を、と清原が燃えていたわけである。
果たして、清原は浜崎から右中間へ見事なアーチ。
チームも打ちまくって11−1の圧勝。
しかもこの試合、清原にとってもう一つのオマケが付いた。
大量リードだったため桑田をマウンドから降ろし、清原がリリーフに起用されたのである。
夢にまで見た甲子園のマウンド。
PLでもエースで四番の座を奪うんだと燃えていた清原は、桑田の出現のおかげで投手は断念。
甲子園のマウンドに立つことは諦めていた。
しかし思わぬ形でその夢が叶った。
甲子園のマウンドで躍動した清原は桑田に負けぬストレートをビュンビュン投げ込み、打者五人をパーフェクトの2三振。
清原は自らの夢を叶えるとともに、浜崎に対しては中学時代の借りをこれ以上ない形で大きな利子を付けて返した。


その後、PLは宇部商(山口)、天理(奈良)を倒して順当に準決勝へ進出したが、清原は一回戦の成績で満足したのか、それ以降はホームランが出なかった。
そして準決勝の伊野商(高知)戦を迎える。
秋の段階で、全国的に見てPLに勝てる可能性があるのは、実際に勝った東洋大姫路と、高知県明徳義塾以外にないと言われた。
明徳義塾は剛腕の山本誠(元・阪急・オリックス)を擁し、強力打線で四国大会を制していた。
しかしその冬、不祥事が発覚し選抜推薦取り消し、センバツ出場は不可能になり、PLが絶対的な優勝候補になっていた。
伊野商は四国大会準優勝とはいえ高知県2位チーム。
春夏通じて初出場の県立校で、明徳義塾とは二度対戦して二度とも敗れていた。
池田を1点に押さえたエースの渡辺智男(元・西武他)が注目されていたぐらいで、PLが圧倒的有利の予想だった。
しかし、高校野球の予想なんて当てにならない。
初回、PLが守備の乱れて2点を失うと、チームは浮足立ってしまった。
PL打線は渡辺の速球を打ちあぐむ。
特に清原を打席に迎えると、渡辺は目の色を変えて速球を投げ込んだ。
第一打席、空振りの三振。
第二打席、空振りの三振。
第三打席、ストレートの四球。
そして第四打席を迎えた。
簡単に2−0と追い込んだ渡辺は、外角に力一杯の速球を投げ込んだ。
清原はこれを呆然と見逃し、三球三振。
手も足も出なかった。
球速は146km/h。
現在でこそ150km/hの速球を投げ込む高校生もいるが、当時は145km/hを投げる投手は全国でも稀だった。
この試合、清原は3打数3三振。
ファールも1球もなく、ただの一度もバットに当てることすらできなかった。
一年の夏、池田の水野に4打席4三振と完敗したが、その時と今とでは状況が違う。
水野に4三振を喫した時はまだ一年生で、三年生の、しかも当時全国ナンバー1投手だった水野を打てないのは当たり前だった。
そして水野の速球にやられたわけでなく、外角スライダーのボール球を振ってしまっての三振が目立った。
だが、今回の相手である渡辺は同学年。
しかも粗さが目立った一年生時と違い、完成された全国一の打者としての対戦での完敗。
それだけでなく、変化球ではなく速球でねじ伏せられた。
清原にとってこれ以上の屈辱はあるまい。
チームも1−3で敗れ、KK在学中で初めて決勝戦に進出できなかった。
勢いに乗った伊野商は決勝でも帝京(東京)を4−0で破り、初出場初優勝の偉業を成し遂げた。


春の敗戦を機に、PLは変わった。
KK最後の夏を迎え、なにがなんでも優勝と目の色を変えて……、という方向にはいかず、自主性に任せた練習が主体となった。
前年から岩倉、取手二、伊野商と、何も背負っていないチームに敗れたことで、常に優勝のプレッシャーがかかったPLが野球を楽しむという要素に欠けていることを痛感したのだ。
そうでなくても、KKだけではなくキャプテンの松山秀明(元・オリックス)や内匠政博(元・近鉄)、控え捕手ではあるが今久留主成幸(元・横浜大洋他)など、後にプロに進んだ連中が五人もいる才能集団、放っておいたって自主練習を欠かさない選手が揃っていた。
中村監督は全体練習の時間を短くし、個人に調整を任せ、特に桑田に対しては春季大会でもほとんど登板させずに自主的なオーバーホールを命じた。
普通なら夏に向けてのレギュラー獲りのためにピリピリとしたムードになる春季大会でも、ベンチのムードはやけに明るかった。
春季近畿大会決勝、久しぶりにマウンドに上がった桑田は天理をノーヒットノーラン、清原も2ホーマーを放ち、夏に向けてこれ以上ないスタートを切った。


迎えた夏の大阪大会、PLは圧倒的な強さで勝ち上がり、準々決勝では此花学院と対戦。
此花学院には高校通算78ホーマーと、当時としてはダントツの記録を持つ田原伸吾がいた。
清原はその時点でまだ高校通算60ホーマーには届いてなくて、最終的にも64ホーマーに留まった。
数の上では田原が圧倒的に上で、大阪のスポーツ新聞は「浪速のスラッガー対決!」と書き立てた。
しかし、此花学院は練習試合が多かったためにこれだけのホームランが打てただけで、試合数が少なく、対戦相手のレベルが高いPLとは比較にならないと、田原は考えていた。
此花学院は大阪市内にあるが、野球部のグラウンドはPLと同じ富田林市内にある。
夜になるとPLグラウンドのナイター照明が見えるため、此花学院の練習はPLのナイター照明が消える30分後まで続いた。
PLより30分多く練習することにより、少しでもその差を縮めようとしたのである。
だが、PLの選手たちはナイター照明が落ちた後も、個人練習に励んでいた。
試合は5−0でPLリードで迎えた9回表、二死一塁で田原に打順が廻ってきた。
桑田はこれでもかとばかりにストレートを投げ込み、田原は真ん中高めのストレートを叩いて、その打球は日生球場のフェンスを直撃した。
田原の一撃で此花学院は1点を返したが反撃もここまで、5−1でPLが準決勝に進出した。
5点差の余裕があったからか、桑田は田原に対して「お前と清原では格が違う。真ん中のストレートで打ち取ってやる」と真っ向勝負し、田原は舐めるなとばかりに桑田の速球を打ち返した。
翌日のスポーツ新聞は「桑田男気、田原と勝負!」と一面トップで報じた。


準決勝で泉尾に苦戦したものの桑田のホームランで3−0と振り切り、決勝では開校3年目である新興の東海大仰星と対戦した。
大阪大会前、「甲子園に行く前に、まずホームランを5本打つ」と公言していた清原は、この試合までまだ3本。
しかしこの試合で、後にプロ入りする二年生の小坂勝仁(元・ヤクルト他)から大ホームランを2本打ち、きっちり公約を果たした。
PLは東海大仰星を17−0で圧倒、5季連続甲子園出場を果たした。
これから野球で売ろうとする新興校に対するあまりにも厳しい洗礼に、中村監督は「自分がPLの選手だった頃、当時大阪最強だった浪商(現・大体大浪商)の大きな壁に何度も跳ね返されていたことを思い出します」と語っていた。


かくして、KKは最後の甲子園の舞台に乗り込んできた。
組み合わせ抽選の結果、初戦は不戦勝で二回戦で東海大山形との対戦が決まった。
不戦勝は大歓迎だが、試合は大会7日目の、初戦としては最終日。
当時の開催期間は14日間だがら、その半分は試合からお預けとなる。
また、現在では寮を持っている関西の高校でも甲子園近くの宿舎で合宿するが、その頃のPLは甲子園に出場しても普段と変わらず富田林市内の研志寮で寝泊まりしていた。
甲子園大会が開幕しても普段と変わりない生活が一週間続き、選手たちは取材に来た記者に対し「僕たち、本当に甲子園に出場しているんですかね?」と訊くほどだった。
一方の東海大山形の滝公男監督は、系列校の東海大仰星から借りた大阪大会決勝のビデオを見ていたが、PLの猛攻が始まると停止ボタンを押してしまった。
見るのが嫌になるほどの猛打線だったのである。
しかも、エースの藤原安弘は肘を壊し、万全の状態ではない。
苦戦は免れようもなかった。
そして、その懸念は想像以上の形で当たってしまった。
25436252×
甲子園のスコアボードに並んだ、PLの得点欄だ。
打ちも打ったり32安打29点、史上初の毎回得点である。
PLの攻撃はノーサイン、ナインは試合を一週間も待たされた鬱憤を晴らした。
あまりの一方的リードに、球審の西大立目永は東海大山形の武田政治捕手を励ましたほどだった。
大量リードで清原はセンバツに続いてマウンドに登ったが、連続四球を与えたりして春のようにはいかなかった。
そして、これだけ打ちまくったにも関わらず、清原のバットからはホームランは出ず。
東海大山形は桑田降板後に意地を見せ、合計7点を奪ったが焼け石に水。
29−7とPLの記録的な勝利。
余談だが、この試合が山形県議会で問題となり、「本県の高校野球はなぜこんなに弱いのか」と大真面目に議論されたほどだ。


三回戦での津久見(大分)戦ではサイドハンドの野村祐一を攻めあぐねたが、豪打だけではないPLらしい隙のない走塁で先制点を奪った。
四回裏無死一、三塁から桑田がキャッチャーフライ。
バックネット近くでキャッチャーが捕ると、すかさず一塁ランナーがタッチアップ。
キャッチャーは慌てて二塁に送球するが、それを見た三塁ランナーが一気にホームイン、1点を強奪した。
バックも桑田を盛りたてた。
六回表、二死一塁でバッターは、センバツ東洋大姫路の豊田からホームランを打っている津久見きっての強打者、上島格。
ジャストミートした打球はセンター後方へあわやホームランの当たり。
それをセンターの内匠が背走、また背走でフェンスにぶつかりながらスーパーキャッチ。
これが抜けていれば、試合はどうなっていたかわからないスーパープレーだ。
僕が今まで見てきた高校野球の中で、この内匠のプレーが文句なくナンバー1のファインプレーだ。
見事な守備と走塁で、これまでとは一味違う戦いぶりで津久見を3−0で振り切り、PLは準々決勝に進出した。


準々決勝の相手は高知商
因縁の相手である。
1978年夏の決勝では言わずと知れたPL奇跡の逆転優勝、2年前の1983年夏の準々決勝では10−9の大打撃戦。
この試合で当時一年生だった高知商のエースの中山はリリーフ登板し、KKと対決している。
高知商にとってPLは憎んでも憎み切れない相手だった。
PLにとっても、特に清原にとって高知商は絶対に勝たなければならない相手である。
高知大会決勝で高知商は、センバツ優勝の伊野商を5−1で倒していた。
中山は高知で148km/hをマークし、清原を3三振に切って取った渡辺以上の剛腕と言われていた。
さらに、準決勝では「幻のセンバツ優勝校」と言われた明徳義塾も3−0で下している。
伊野商のセンバツ優勝後、渡辺は「高知に帰ったらウチより強いチームが二つもおるきに」と言っていたが、その二つとは明徳義塾であり、高知商だった。
自らの手で渡辺にリベンジする機会を失った清原にとって、春の汚名を晴らすには中山を打ち崩す以外に方法はなかった。
その機会は4−2でPLリードの五回裏にやってきた。
先頭打者として打席に立った清原は、中山が渾身の力を込めて投げ込んだ内角速球を、やはり渾身の力を込めて打ち返した。
ジャストミートした打球はレフトスタンド上段へ。
高校野球史上最長と言われる140mの大ホームラン。
中山は呆然と打球の行方を見送った。
続いて桑田にも追撃アーチが飛び出し、KKアベック弾。
剛腕・中山はこの二発で轟沈し、6−3でPLは優勝候補対決を制した。
この中山×清原の対決は甲子園史上に残る名勝負と言われている。


準決勝は開校3年目の甲西(滋賀)との対戦。
開校3年目という点では東海大仰星と同じだが、野球に力を入れようとする東海大仰星と違い、甲西は野球のやの字も知らない県立校。
満足なグラウンドもなくて、石ころが転がる野っ原から野球部がスタートした。
当然のことながら大会前は全く注目されてなかった甲西だが、大会が始まるとあれよ、あれよと勝ち進み、準々決勝では後にメジャーで活躍する大魔神こと佐々木主浩(元・横浜大洋他)を擁する東北(宮城)に逆転サヨナラ勝ちするなど逆転勝ちの連続で、「ミラクル甲西」と言われて旋風を巻き起こした。
しかし所詮、PLの敵ではなかった。
大会前半、快音が聞かれなかった清原のバットが中山との対決から復活し、この日は三打数三安打2ホーマーの大暴れ。
15−2で甲西を一蹴し、決勝へ進出した。


いよいよ決勝戦を迎えた。
相手はセンバツでも二回戦で対戦した宇部商である。
宇部商には二人のキーマンがいた。
一人はエースの田上昌徳、もう一人はセンターの藤井進である。
170cmと小柄ながら田上は左腕エースとして宇部商を引っ張ってきた。
センバツでも最終的には6失点ながらPLを最後まで苦しめ、この夏の甲子園でも二回戦で鳥取西を二安打完封している。
ところが、大会終盤に入って調子を崩した。
準々決勝の鹿児島商工(現・樟南)戦、準決勝の東海大甲府(山梨)戦と、二試合とも序盤でKOされ、控えの古谷友宏のリリーフを仰いだ。
宇部商センバツ後PLを訪れ、残念ながら雨で練習試合は中止になったが、そのとき田上は清原と仲良くなり、夏の甲子園での再戦を誓い合った。
しかし、PL戦を目前に突如訪れたスランプ。
このままでは清原を抑えるどころか、ひょっとすると古谷に先発マウンドを譲るかも知れない。
一方の主力打者でもある藤井はセンバツでは、PL戦の前に怪我をしてしまい、PL戦は出場していない。
そして夏の甲子園に登場するや、清原も真っ青の大爆発をした。
前年度まで清原らが保持していた一大会3ホーマーを上回る4ホーマーで新記録を樹立した。
決勝戦は宇部商の先発が誰になるか、藤井が桑田を打ち砕くか、が焦点となった。


決勝戦が始まった。
PLの先発はもちろん桑田、宇部商は不調の田上をレフトに下げて、初先発となる好調の古谷をマウンドに送った。
センバツのPL戦では欠場した藤井は、それまでの六番から堂々の四番に座った。
センバツ二回戦でPLが対戦した宇部商とは全く別のチームと言ってよい。
そしてPLには一抹の不安があった。
準決勝の甲西戦で清原がふくらはぎを痛めてしまったのである。
夜になっても痛みは引かず、初めて夜の素振りを休んでしまった。
しかし、苦しいのは桑田も一緒だった。
組み合わせ上、三回戦から決勝戦まで四連投を余儀なくされた桑田の疲労は極限に達していた。
その桑田が「宇部商を3点で抑えるから、必ず4点取ってくれ」と清原に頼んだ。
常に完封勝利を狙う完璧主義者の桑田にすれば、ずいぶん弱気な言葉である。
清原は「おう、任せとけ。その代わり、藤井には絶対にホームランを打たせるな」と答えた。
なんとしても自分のバットで桑田を助け、藤井の記録を抜き返して優勝してやる、清原はそう誓った。


二回表、桑田は宇部商に1点先制されてしまう。
そして三回表、一死満塁という絶体絶命のピンチを迎えた。
バッターは二年生ながら三番の、センバツでは桑田からホームランを打っている田処新二。
しかし桑田は田処を三振に打ち取った。
二死満塁で四番の藤井。
そしてここでも桑田は外角速球で空振り三振、二者連続三振でピンチを脱した。
四回裏、清原が桑田を援護する。
古谷の投球を叩いた打球はあっという間の弾丸ライナーでラッキーゾーンに突き刺さる同点アーチ。
足を負傷しているとはとても思えない一打で、藤井が持つ4ホーマーの記録に並んだ。
五回裏に1点を加えて逆転したPLだったが、六回表にピンチを迎える。
一死一塁で藤井の放った打球は、あわやホームランのセンターを大きく超える三塁打で同点。
そして先発マウンドを譲り、悔しい思いをしている五番の田上がセンターへの犠牲フライで逆転に成功した。
2−3でPLが1点ビハインドで迎えた六回裏、バッターは清原。
藤井の三塁打で同点、さらに逆転されて悔しい思いをしたか、あるいは藤井の打球がホームランにならずにホッとしたか。
清原が放った打球はセンター、やや左中間寄りに飛んだ。
朝日放送植草貞夫アナが絶叫する。
「藤井のところに飛んだ!藤井は見上げているだけだ!ホームランか、ホームランだ!恐ろしい!両手を挙げた!甲子園は清原のためにあるのか!」
その飛距離は中山から打った140mを超える150m弾。
藤井の記録を抜いたこの瞬間、「KK」の順番が「桑田、清原」から「清原、桑田」になったと言っても過言ではない。


3−3で迎えた九回裏のPLの攻撃、二死二塁で迎えるバッターは三番のキャプテン・松山。
後ろには清原が控えていた。
松山の放った打球は鋭い金属音を残してライナーで右中間を転々とした。
二塁ランナーの安本政弘がサヨナラのホームイン。
PLが得意のサヨナラゲームで二年ぶりの優勝を果たした。
ネクスト・バッターズ・サークルから清原がバットを持ったままホームに駆け寄り、持ったバットを頭上に掲げながらナインと喜びを爆発させた。
普通ならバットを放り投げて歓喜の輪に加わるところだが、バットを人一倍大事にする清原にとって、バットを放り投げることなどできなかったのである。
桑田は、3失点で抑える、藤井にホームランを打たれない、という二つの公約を果たし、さらに最大の公約だった一年時以来の甲子園優勝投手になった。
PLナインが応援団に挨拶したあと、清原は桑田と涙で抱き合った。


大会終了後、世間はKKの進路について注目した。
清原はもちろんプロ志望、中でも子供の頃から夢だった読売ジャイアンツへの入団を熱望していた。
一方の桑田は早稲田大学進学を表明、清原はプロで桑田が進学、と誰もが予想した。
最後の夏の甲子園で桑田は優勝投手になったとはいえ、成績は平凡なものでいきなりプロでは難しいと思われた。
一方の清原は甲子園通算13ホーマーと、誰がどう見ても史上最強の打者で、プロでの活躍が期待された。
迎えた運命のドラフト、清原は評判通り6球団が清原を指名してきた。
だが、その中に最愛の巨人の名前がなかった。
パ・リーグ広報部長の伊東一雄の声がドラフト会場に響き渡る。
「第一回選択希望選手。読売、桑田真澄。17歳、投手。PL学園高校」
パンチョさんの普段と変わらぬ淀みのない声に、会場は騒然となった。
巨人は他球団が清原に注目する中、一本釣りを狙ったのだ。
桑田は早大進学から一転、巨人入団を表明した。
ドラフト当日、巨人の桑田1位指名を知った清原は、記者会見で悔し涙を流した。
清原にとって、逆転したと思っていた「KK」の順番が再び「桑田、清原」に戻ったという思いだっただろう。
そして子供の頃から憧れていた、当時巨人の監督だった王貞治に裏切られた思いだったに違いない。


西武(現・埼玉西武)ライオンズに入団した清原は、1年目に高卒新人新記録、新人記録としてもタイとなる31ホーマーを放って堂々たる新人王に輝いた。
そしてシーズン終盤では、高卒新人としては異例の四番打者に抜擢され、西武の日本一に貢献した。
高校時代、一年生の時にPLの四番に座って日本一になり、プロでも西武の四番打者として日本一になる。
これほど「四番打者」が似合う男はそうはいまい。
一方、巨人に入団した桑田は2勝に終わり、「KK」の順番を「清原、桑田」と再逆転に成功した。
しかし翌年、桑田は15勝をあげて最優秀防御率沢村賞に輝き、「KK」の対立軸をイーブンとした。
だが、その年のオールスターゲームでは想い出の甲子園で清原が桑田から大ホームラン、日本シリーズでは西武が巨人を倒して、清原にとって巨人に対する雪辱を果たした。
勝利を目前としたときの、守備についていた清原が流した涙は、今でも日本シリーズ名シーンとして語り継がれている。
KKはその後も日本シリーズやオールスターで名勝負を繰り返し、KK対決は日本プロ野球最大の名物となった。


その後、清原はフリーエージェントで巨人に移籍、桑田と再びチームメイトとなった。
しかし、清原には「無冠の帝王」というありがたくない称号が付いて回った。
ホームラン王、首位打者打点王という打者としての主要三部門のタイトルを獲れなかったからである。
だが西武時代の監督だった森祇晶から「お前はどんなタイトルよりも素晴らしいタイトルを獲っている。それが『日本一チームの四番打者』という称号だ」と言われていた。
PL時代からホームラン打者でありながら勝つ野球を叩きこまれ、四番打者の責任としてチャンスではヒット狙いが自然と身に付いていた。
それがプロでは個人タイトル奪取の足かせになっていたことは間違いない。
しかし森は、そんな清原が四番に座っていたからこそ、前後を打つ秋山幸二オレステス・デストラーデが活き、西武が常勝軍団でいられたと考えていた。
だが、その考えは巨人では通用しなかった。
常に巨人の四番にふさわしい成績を要求され、ちょっと打てないとファンや球団所有者から罵声を浴びた。
そして次代のスラッガー松井秀喜が押しも押されもせぬ四番打者に成長した頃、清原は居場所を無くしていた。
四番打者ではない清原など、既に清原和博ではない。
そう考えていたのかも知れない。
その後、巨人を追われるように退団し、オリックスバファローズに拾われた。
もう四番を打つ力を失っていた清原は怪我も悪化して出番がなく、引退の時を待った。


高校一年時から25年後の2008年10月1日、生まれ故郷の大阪で桑田が見守る中、清原は四番打者として出場した。
高校一年生からずっと四番を打ち続けていた清原が、この日を最後にバットを置いた。
ドラフトの時、自分を裏切った「世界の四番打者」の王貞治から花束を受け取った。


清原は、最後の最後まで四番打者だった。


(完)