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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

永遠の四番打者〜清原和博の高校時代(4)

秋になってPLも三年生が引退し、新チームを結成して秋季大会に挑んだ。
もちろん清原は押しも押されもせぬ四番打者、桑田は初めて堂々たるエースナンバー「1」を背負った。
秋季大阪大会、そして近畿大会ともに圧倒的な強さで勝ち進み、PLは両大会とも優勝して一年を締めくくった。


センバツ出場をほぼ手中にしたPLは、春に向けて厳しい冬練習に入った。
しかも、当時のPLはいくら厳しいとはいえ全体練習だけでは到底レギュラーを獲ることはできず、練習後の個人練習により実力差が現れると言っても過言ではなかった。
消灯後に素振りをするなんてのは当たり前。
しかし、その中に清原の姿はなかった。
さすが一年から四番を張っている男、天才に練習など必要ないと思われていたが、そうではなかった。
なんと清原は、雨天練習場で勝手に打ち込みをしていたのである。
もちろん、これは規則違反で許されることではない。
ましてや清原はまだ一年生である。
このことが仲の良かった一年先輩の清水哲にバレて、「お前、俺やったからええけど、他の先輩に見つかったら面倒なことになるぞ」と注意された。
しかし清原は「哲さん、練習して怒られるんやったらPLを辞めます」と言って打撃練習をやめようとはしなかった。
清水哲はこの言葉に驚き、清原みたいなヤツが素振りでは飽き足らず打撃練習をしているのなら、俺だって……、と清原と共に雨天練習場で打ち込みをするようになった。
清原が練習の虫に変身したのは、桑田の存在があったからである。
入学時には気にも留めていなかったちっこいヤツが、いつの間にか自分以上に脚光を浴び、自分が選ばれなかった全日本高校選抜に選ばれた……。
センバツでは絶対に抜き返してやる、清原はそう誓った。


翌春、当然のようにセンバツに選ばれたPLは、これまた当然のように優勝候補大本命だった。
一回戦の相手は、函館有斗の出場辞退による代替出場、北海道の補欠校だった初出場の砂川北。
誰がどう考えても、PLに負ける要素はなかった。
PLの先発は桑田を温存し田口、桑田はライトに回った。
初回、清原の第一打席はレフトスタンド中段に飛び込む大ホームラン。
センバツ初打席初アーチである。
前年夏のライトラッキーゾーンへのホームランと違い、完璧に捉えた打球は間違いなく長距離ヒッターとしての資質を証明するものだった。
だが、この試合でも注目されたのはやはり桑田。
マウンドに立たない分、打席で気合いが入りまくった桑田は清原を上回る2ホーマー。
また清原は桑田に後れをとった。


しかし、二回戦の京都西(現・京都外大西)戦では今までの不利を挽回した。
バックスクリーンへのホームランを含む2ホーマー。
センバツでのホームラン数は桑田を逆転し、四番の面目を保った。
よく、清原とセンバツは相性が悪い、と言われるが、そんなことはない。
むしろ、稀代の打者として本格的に注目されるようになったのは、二年のセンバツからである。
前年夏にはまだひ弱な印象があった清原だったが、このセンバツで将来の大砲としての太鼓判を押されたのだ。


圧倒的な強さで勝ち進んだPLは準決勝で都城(宮崎)と対戦。
PLは決勝を見越して桑田を温存、初戦に続いて田口を二度目の先発マウンドに送った。
この投手起用に燃えた男がいた。
都城の左腕エース、同じ田口姓の田口竜二(元・南海)である。
田口竜二はPLの強力打線を全く寄せ付けず、それまでの試合で猛打をふるっていたPL打線はウソのように沈黙。
PLの田口も四回まで0点に抑えていたが、相手の田口のピッチングを見てヤバイと思ったのか、中村監督は五回から桑田を投入した。
桑田と田口の息詰まる投手戦が続き、0−0で延長戦に突入。
延長11回裏、二死一塁で打席は桑田。
期待された桑田だったが、あえなくライトフライ。
しかし都城の隈崎正彦が平凡なフライを落球してしまい、二死だったため一塁ランナーが長躯ホームイン。
サヨナラ勝ちでPLはなんとか決勝に進み、夏春連覇にリーチをかけた。


決勝の相手は初出場の岩倉(東京)。
岩倉は前年秋の明治神宮大会で優勝し、それなりの評価は得ていたが、下馬評ではPL圧倒的有利だった。
当時の明治神宮大会は、各地区の優勝校が集う現在と違い、地区によって出場校の基準が曖昧だったため、あまり信用されるデータではなかったのだ。
だが、都城の田口に狂わされたPL打線は元には戻らなかった。
低めに変化球をひょうひょうと投げる山口重幸(元・阪神他)に完璧に抑え込まれた。
六回には清原がなんと送りバントまでやってのけたほどだった。
僕の記憶では、このとき以来清原の送りバントは見たことがない。
一方の桑田も岩倉打線を寄せ付けず、14奪三振の力投。
しかし、8回裏に菅原剛にライト前タイムリーヒットを打たれ、これが決勝点になった。
終わってみれば山口が1安打完封、0−1でPLは敗れ、夏春連覇は夢と消えた。
中村監督の甲子園連勝記録も20で途切れ、甲子園初敗北となった。


夏に向けて再スタートを切ったPLだったが、岩倉戦敗北の後遺症は残ったままだった。
春季大阪大会では準々決勝で近大附に0−1で敗れた。
打つ時は必要以上に打つが、相手投手のデキがいいとウソのように沈黙してしまう。
この試合でPLを完封したのが左腕の木下文信(元・近鉄他)だったが、木下にとってPLは憎んでも憎み切れない相手だった。
前年秋、秋季大阪大会の準決勝でPLと対戦したが、1−12の大敗。
それでも近畿大会でも準決勝に進出し、再びPLと対戦した。
しかしここでも2−11のコールド負けとなった。
そうは言っても、近畿大会ベスト4は普通ならセンバツ当確圏内。
だが、このPL戦二度の大敗が選抜選考委員会で問題となった。
「春は投手力」と言われていたため、同じ相手に二度続けての二桁失点は投手力が弱すぎる、と判断されて、近畿大会ベスト4チームとしては異例のセンバツ落選となってしまったのだ。
近大附の「弱体投手陣」のエースだったのが言うまでもなく木下だったのである。
そうでなくても近大附は「悲運の強豪」と言われていた。
夏の大阪大会は1978年から5年間で四度の準優勝、一度の準決勝敗退。
甲子園出場の前に大きく立ちはだかっていたのがいつもPLだった。
そして近畿大会ベスト4でようやく悲願の甲子園出場かと思ったら、今度はPL戦二度の大敗のためにまたもや大魚を逃す。
夏の大会、当然の如く近大附は打倒PLに燃えており、中でも自分のせいでセンバツ出場を逃した木下の気迫は尋常ではなかった。
それが、甲子園に直結しない試合だったとはいえ、PL戦三安打完封の快挙につながったのである。
ちなみに、KKがいる三年間でPLが大阪府内の公式戦で負けたのは、まだ一年の時にレギュラーでなかった頃の春季大会での桜宮戦と、この近大附戦の二度のみである。
プロ野球の選手名鑑にはよく「最高の球歴」の欄があるが、木下の項には「春季大阪大会でKKがいるPLを完封したこと」と書いてある。
「最高の球歴」で、プロ、社会人、大学、甲子園およびその予選とは全く関係ないことが書かれているのは木下くらいのものだろう。
KKのPLを完封することは、甲子園とは関係なくてもそれほどのステータスがあったのである。


夏の大阪大会は、当然近大附が最大のライバルとなった。
奇しくも春季大会と同じく、準々決勝で両雄が激突。
ところが、近大附は意表をついて木下ではなく、一年生の阪口を先発投手に起用した。
左の技巧派である木下の先発予想の裏をかいて右の速球派の阪口をマウンドに送り、三回途中までPLを0点に抑えた。
しかし三回、無死一塁で清原を迎えたところで木下を投入。
センバツ決勝の時と違って清原に送りバントをさせる気はさらさらなく、清原が叩いた打球は日生球場のレフト場外へ。
この先制2ランが効き、近大附打線は桑田に襲いかかるもPLの好守に阻まれ、5−2でPLがなんとか近大附を振り切った。
決勝に進出したPLは、前PL監督の山本泰監督率いる大阪産大付との対戦。
産大付のエース、木下と似たタイプの左腕の中本浩はPL打線を翻弄したが、清原がまたもや日生球場レフト場外へ2ラン。
キャプテン清水孝悦の先制2ランと共に、4−0でPLが三季連続の甲子園出場を決めた。


甲子園初戦の相手は愛知の名門、享栄。
注目されたのは清原と同じ二年生四番の安田秀之(元・南海他)。
享栄といえば前年春のセンバツで3ホーマー、11打席連続出塁と大暴れした藤王康晴(元・中日他)が有名だったが、安田は当然「藤王二世」と呼ばれていた。
この安田をライバルと思うか?という記者の問いに清原は言葉を濁したが、桑田がすかさず「清原以上のバッターなんていませんよ」とフォローした。
そしてこの享栄戦、清原は今までの鬱憤を晴らすかのように大爆発した。
享栄投手陣を苦もなく打ち返し、甲子園史上初となる一試合3ホーマー。
2005年夏に大阪桐蔭平田良介(現・中日)が一試合3ホーマーを記録したが、当時は驚天動地の大記録だった。
この3ホーマーにより甲子園通算ホームランも7本となり、それまでの記録だった浪商(現・大体大浪商)の香川伸行(元・南海)が持つ5ホーマーを難なく塗り替えた。
この試合で清原は完全に怪物として認知されたと言ってよい。
桑田も安田を完全に封じ込め、14−1と圧勝した。
ただ、桑田にとってこの1失点が屈辱だったらしく、そのきっかけになった三塁打について「あれはただのファーストゴロ、つまりお前のエラーや。もう1本ホームラン打ったら許したる」と清原に言い、実際に3本目のホームランを打って桑田の度肝を抜いた。
この一試合3ホーマーによって、桑田と清原は完全に対等になった。


三回戦では宿敵の都城との対戦。
優勝候補同士の一番と言われたが、清原が初回に先制打を放つとPL打線は波に乗り、終わってみれば9−1の大勝。
前回の対戦では勝っているのに変な言い方だが、PLにとっては都城に対しリベンジを果たしたような気分だっただろう。


このまま夏二連覇に向かって突っ走るかと思われたが、準々決勝の松山商(愛媛)戦で思わぬ苦戦を強いられた。
松山商のエースは二年生左腕の酒井光次郎(元・日本ハム他)。
大阪出身で中学時代は準硬式をしていた酒井は、当然当時から大正中の桑田の名前は知っていた。
酒井は変化球を低めに集め、PL打線を翻弄。
どうもこの年のPL打線は「左腕」と「低めの変化球」に弱かったらしい。
センバツと同様、左腕投手に調子を狂わされたPL打線だったが、なんとか2−1で振り切って準決勝に進出した。


準決勝は金足農(秋田)戦。
東北の、しかも農業高校が準決勝まで進出することは稀有の例だった。
当然、PL有利の予想だったが、一度狂った打線は元には戻らず、金足農のエース水沢博文を打ちあぐんでいた。
逆に桑田は2失点を許し、八回裏を迎えて2−1と金足農が1点リード。
PLは敗色濃厚となった。
東北の名もない農業高校が天下のPLを倒すのか、甲子園のマンモススタンドが異様な雰囲気に包まれる中、その静寂をひとつの打球が切り裂いた。
八回二死一塁から、桑田がレフトポール際に起死回生の逆転2ラン。
桑田のバットが金足農の野望を打ち砕き、「逆転のPL」が健在であることを示した。
3−2の薄氷の勝利で決勝進出、夏二連覇へあと1勝と迫った。
しかし清原のバットからは、一回戦の3ホーマー以来アーチが飛び出すことはなかった。


決勝戦の相手は知将・木内幸男監督率いる取手二(茨城)。
練習試合ではPLが13−0と圧勝している相手だった。
当然、PLが有利と思われていたが、桑田の調子は最悪だった。
都城戦で爪が割れて、全力投球ができなくなっていた。
そして、打線の状態も悪い。
下馬評とは裏腹に、PLナインは自信を失っていた。


しかし、PLに天が味方した。
試合前、甲子園には激しい雨が襲い掛かったのである。
雨天中止になれば桑田の回復が見込まれ、打線も調子を取り戻せるかもしれない。
PLナインの誰もがこの雨を歓迎し、水はけのいい甲子園の黒土には広い範囲の水たまりができたことによって、今日の試合は中止だと思い込んだ。
だが、PLに味方したと思われた天の神様が、今度はPLを突き放しにかかったのである。
この神様がPL教の神様だったのかどうかは定かではない。
甲子園上空を黒く覆っていた雲が急速に晴れ、大会本部は30分遅れで試合開始を決定したのだ。
「水はけの良い甲子園にあれだけの水たまりができたのだから中止だ」とPLナインは思っていたが、逆に甲子園の水はけの良さが試合開始を可能にしたのである。
さらに、PLにとって非情な通告が大会本部から伝えられた。
試合開始がさらに5分ほど早まったのである。
いったんは中止と思い込み、それが30分後に試合開始と伝えられ、さらに5分も早まってしまう。
一度切れた集中力をもう一度取り戻すのは、高校生にとっては困難なことだった。
それがたとえ自己管理に長けた桑田であっても、である。
しかも桑田はその時、手負いの狼だった。
できれば投げたくない、と思っていた者にいきなり投げろ、と言われても、いいピッチングなどできるわけがない。


そんな桑田を、いつも桑田を助けていたバックが足を引っ張った。
初回、センター前ヒットをセンターの鈴木英之が後逸し、打者走者が一気にホームまで駆け抜けて2点を先制された。
雨のため芝生が濡れていたので、打球が予想以上に速かったのである。
その裏、清原に打順が廻ってきた。
清原が打った打球はライトポール際のホームラン。
と思われたが、審判の判定はファール。
清原は今でもあの一打を「入っていた」と思っているが、微妙な判定が勝負を左右した。
その後も桑田は騙し騙し取手二打線をかわしていくが、七回表に吉田剛(元・近鉄他)に2ランを浴び、1−4と不利な展開。
八回裏にPLが2点を返し、4−3と取手二が1点リードで九回裏のPL最後の攻撃を迎えた。


先頭打者はこの日初スタメンのトップバッター、清水哲。
清水哲はセンバツではサードのレギュラーだったが、夏は控えに甘んじ、背番号12を背負っていた。
しかし、甲子園では代打に起用され、7打数5安打という驚異的な打率でラッキーボーイとなり、遂に決勝戦で一番打者として先発出場を果たしたのである。
その清水哲が放った打球はレフトラッキーゾーンに飛び込み、起死回生の同点ホームラン。
試合は振り出しに戻った。
こうなれば「逆転のPL」の異名をとるPLのサヨナラ勝ちを誰もが疑わなかった。
迎えるのはPLが誇る上位打線である。
一死一塁で四番の清原を迎えた。
前の打席では取手二のエース・石田文樹(元・横浜大洋、横浜)の馬鹿にしたようなスローボールをレフト前ヒットにしている。
ここで一発はもちろん、長打でもサヨナラ勝ち、夏二連覇決定のシーンである。
しかし清原は内角高めのボール球に手を出し、あえなく三振。
続く桑田も凡退して、試合は延長戦に突入した。


延長10回、桑田はもう限界に来ていた。
割れた爪が痛くて得意のカーブが投げられない。
ストレートも威力が全くなく、取手二打線に狙われた。
そして、桑田が引導を渡される瞬間がやってきた。
取手二の五番打者、中島彰一が叩いた打球はレフトスタンドへ。
それはまさしく、桑田の最期にふさわしい打球だった。
8−4で茨城の県立校、取手二が史上最強と謳われた不沈艦のPLを轟沈した。
PLはセンバツの岩倉に続き、無手勝流のチームに敗れ去ったのである。


いわゆる「KK世代」に好選手が揃っているのは偶然ではない。
KK世代の二年先輩は「昭和40年会」を形成し、やはり多くの好選手を輩出している。
KK世代は「昭和42年会」だが、その間の昭和41年生まれ組はエアポケット状態で、プロで活躍した選手は少ない。
この昭和41年(1966年)はいわゆる丙午(ひのえうま)年で、出生率が低かった。
したがって、その前後の年がベビーブーマーとなって、好選手も多くなったのである。


取手二の木内監督は決勝戦の試合前「PLの中心は二年生だ。お前ら三年生が下級生に負けたら全国の三年生に申し訳ないだろ」と檄を飛ばした。
春の岩倉、夏の取手二は、スポットライトを浴びることの少なかった三年生たちが、KKに対して意地を見せたのである。
その思いは、PLの前に敗れ去ったとはいえ田口、木下、中本、水沢も同じだっただろう。


それは、人口が少なかった丙午世代による、偉大なる反抗期だった。


(つづく)