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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

最強の称号・チャンピオンベルト物語〜その2

AWA世界ヘビー級選手権(American Wrestling Association)


全米最大のプロレス組織であるNWAから、アマチュア・レスリングの実績充分であるバーン・ガニアをエースに仕立てて独立、ミネアポリスに本部を置くAWAが発足した。
ほぼ全米を傘下に収めたNWAに比べて、米北西部を圏内としたAWAはやや地味な印象だったが、それでも全米第二のプロレス団体には違いなかった。
今の日本の政治に当てはめれば、NWAが自民党、AWAが民主党といったところか。
AWAもNWAと同じくプロモーターの集合団体だったが、実際にはAWA王座に長く君臨し、プロモーターも兼任していたガニアが実権を握っていた。
つまり、会長が輪番制だったNWAと異なり、この点でも複数の総裁候補から総裁選で党首を選ぶ自民党に対し、無投票で小沢一郎が代表に君臨している民主党に似ていたと思える。


日本では日本プロレスがNWAルートを握っていたため、ライバル団体の国際プロレスがAWAと提携していた。
日本でもNWAとAWAの争いがあったわけである。
日本プロレスが崩壊し、新日本プロレスと全日本プロレスが誕生してからは、全日本がNWAルートを引き継ぎ、新日本はニューヨークで勢力を伸ばしつつあったWWF(現・WWE)と提携した。
つまり、年代を経てもNWA、AWA、WWFの三大団体の対立構造がそのまま日本に持ち込まれていたため、日本での3団体間による競争はアメリカのプロレス事情を抜きにしては語れないと言われていた。


しかし、人気面で劣っていた国際プロレスは資金力不足を露呈し、AWAとの提携を打ち切らざるを得なかった。
その事情として、AWAは地味なレスラーが多くて客を呼べす、その割にはギャランティが異常に高かったため、もうAWAのレスラーを呼ぶ金が無くなっていたのだ。
ガニアは相当ビジネスにシビアだったらしく、少ないギャラから高いマネージメント料を取られていたレスラーからは不満の声も大きかった。
しかし、国際プロレスはAWAに高いギャラを払わずに済むようになったものの、代わりに呼んだ外人レスラーは二流の色物選手が中心となり、客が呼べずにテレビ中継も全国ネットのTBSに打ち切られ、代わりにネット数が少ない東京12チャンネル(現・テレビ東京)が放映するも人気は一向に上がらず、あえなく崩壊した。


AWAは地味なレスラーが多いと書いたが、実は後のスターになるレスラーが最初に踏んだマットがAWAだったという例は多い。
古くは国際プロレスでスター外人となったビル・ロビンソン、後にアンドレ・ザ・ジャイアントになるモンスター・ロシモフら、ヨーロッパ系のレスラーをガニアが発掘した。
さらにハルク・ホーガンやリック・フレアー、ザ・ロード・ウォリアーズといった全米の大スターになるレスラーもデビューして間もない頃にAWAマットに登場していたので、「AWAはスターを発掘するのは上手いが、有名になると他団体に引き抜かれ、結局は泣きを見る商売下手な団体」というイメージが付いた。
ビジネスに厳しかったガニアも、肝心の商売には結びつかなかったというところか。


そんなAWAも、全米を凌駕する団体になりかけたことがあった。
1985年頃、前述のアンドレ、ホーガン、ウォリアーズらのスーパースターを擁したAWAは、さらにガニアがNWA株を買い占め、NWA傘下のレスラーも取り込むことが可能になり、「プロレスリングUSA」という名称でAWA・NWA連合軍のトップとしてガニアが君臨し、WWFを圧倒して全米を制圧しようとした。
これも日本の政治に例えるなら、自民党と民主党大連立構想にも似ている。


それより前、国際プロレスとの関係が切れたAWAは、当時のAWA世界チャンピオンだったニック・ボックウィンクルを全日本プロレスに送り込み、84年には日本でジャンボ鶴田がニックを破って日本人初のAWA世界王座に就いた。
これで全日本は御大のジャイアント馬場によるNWA世界王座奪取に続いて、全米3大タイトルのうち二つを得ることができたわけである。
これは日本のプロレス団体としては空前絶後の快挙であると言えるだろう。
さらに鶴田が凄かったのは、馬場がNWA王座の防衛戦を日本でしか行わなかったのに対し、鶴田はAWA世界チャンピオンとしてアメリカでサーキットし、防衛戦を数多くこなしたことである(このサーキット中に、リック・マーテルに王座を奪われる)。
その点では、馬場のNWAよりも鶴田の方が真の「世界チャンピオン」と呼べるのではないか。
そして鶴田にAWA王座を与え、アメリカをサーキットさせた理由として、全日本をAWAに取り込んでしまおう、というガニアの野心もあった。
ガニアにとって日本は魅力的なマーケットであり、NWAと提携している全日本マットは最高の稼ぎ場所だった。
この頃、全日本マット上でNWA世界王者のリック・フレアーと、AWA世界王者のリック・マーテルによるWタイトルマッチを行うという、アメリカでは絶対に実現不可能なマッチメイクを実現させた。
その後、全日本に定着していたスタン・ハンセンもAWA世界チャンピオンになっており、ここにもAWA・NWA・全日本で日米マット界を牛耳ろうとする姿勢が窺える。


しかし、プロレス界制圧を目前にしてガニアAWAの野望は無残にも打ち砕かれる。
そのきっかけはハルク・ホーガンのWWF復帰だった。
マッチョ体型とパワーだけが売り物でレスリングのできないホーガンに対するガニアの評価は低く、AWA世界チャンピオンの座を与えなかった。
その頃、WWFではテレビ局のNBCと提携して全米中継のプロレス番組によって全米制圧を図り、NBCの豊富な資金力をバックに有名レスラーを引き抜きまくっていた。
ここにアメリカのプロレス界はNWAのようなプロモーター協会の形式から、テレビ局を背景にした金権団体の時代が始まったのである。
これは日本における全日本プロレス=日本テレビ、新日本プロレス=テレビ朝日のような関係に似ているが、WWFの場合はテレビ局がプロレス経営に参加し、プロレス番組も仕切ってしまうというもの。
そのため、レスリングができる、できないは全く関係なく、要するに視聴率が取れればそれで良かったのだ。
そこで、WWF及び全米ファンの好むマッチョマンであり、映画「ロッキー3」にも出演してプロレスファン以外にも人気のあったホーガンは格好のスターだった。
さらに、プロレスなどやったことがないド素人のマッチョ系俳優までがマットに登場して、本職のプロレスラーにも勝ってしまうという、ガニアにとっては信じ難い光景がWWFマットでは当たり前のように行われ、これが全米ファンにウケた。
この大凡プロレスとは思えないWWFブームでAWAの興行成績は一気に落ち込み、レスリング一筋だったガニアにとっては素人プロレスに負けたことが何よりも屈辱だったに違いない。
またNWAもWWFの勢いを止めることができず、WCW傘下に収まり、WWFと同様「テレビ局プロレス」に邁進していった。
客が集まらず、レスラーにギャラが払えなくなったためにWWFやWCWにレスラーを引き抜かれ、さらに客が減ってしまうという負のスパイラルに陥ったAWAはもはや興行を続けることはできず、1991年、静かにその長い歴史に終止符を打った。


AWAの崩壊、NWAの有名無実化により古き良き時代のプロレスは姿を消し、WCWも消滅したアメリカマット界はWWF(WWE)流のキャラクタープロレスが全盛となった。