ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

天才の覚醒前夜〜桑田真澄の高校時代(6)

大会13日目の準決勝第一試合、PL学園と池田が激突した。
人気チームの池田と地元のPLが対戦するとあって、甲子園は5万8千人の超満員である。
しかし、試合前の予想では池田が圧倒的に有利だった。
池田が準々決勝で最大の強敵・中京を破ったことにより、「甲子園の夏は終わった」とさえ言われた。
つまり、これで池田の夏春夏三連覇は達成されたも同然、というわけである。
一方のPLの評価は「打線はいいが、投手力高知商に9点取られたことからもわかるように、桑田、藤本のいずれが先発しても、やまびこ打線が相手では相当の失点を覚悟しなければならない。七分三分で池田が有利」という、大変厳しいものだった。


PLの選手たちは、大阪府富田林市内にある研志寮からいつものようにバスに乗って甲子園入りした。
現在ではPLも甲子園に出場すれば大阪市内のホテルに泊まるが、当時は甲子園大会中でも学校の寮で寝泊りすることが認められていた。
つまり、甲子園出場と言っても普段と同じ生活が送れたわけである。
富田林から兵庫県の西宮市までバスで1時間以上かかる距離だが、選手たちにとってこの移動はさほど苦にはならなかっただろう。
前監督の鶴岡泰(現在は山本泰。南海ホークスの名監督、鶴岡一人の息子。現・シアトルマリナーズのスカウト)は夏の甲子園期間中、体に悪いという理由でクーラーを禁じていたが、中村監督は「それよりもぐっすり眠るほうが大切」とクーラーの使用を許可した。
三年生エースの藤本は、桑田が少しでもよく眠れるようにと自室に呼んで寝させた。


池田は甲子園期間中、甲子園のすぐ近くにある網引旅館に宿泊していた。
歩いてでも甲子園入りが可能な距離だが、それでも移動にはバスを使った。
理由は、あまりの人気ゆえ、歩いていくとたちまちファンにもみくちゃにされるからである。
池田の選手たちは試合のたびに、バスから降りると一目散に球場入りしていた。
池田の選手にとって大変なことだったのだろうが、反面、二週間も見知らぬ土地で旅館暮らしができるという、一種の旅行気分も味わえたのかも知れない。
難敵中の難敵、中京を破った選手たちは大浴場で「ワシらはなんでこんなに強いんかのう。明訓(漫画『ドカベン』に登場する無敵の高校)みたいじゃ」「このままやったらまた優勝してしまうわ」と言ってはしゃいでいた。
普段と変わらぬ生活を送るPLと、旅行気分でリフレッシュした池田との対戦に影響が出るのか。


両チームの先発メンバーが発表された。
最も注目されたのはPLの先発投手だが、やはり一番信頼感がある一年生の桑田で、その他のメンバーもPL、池田とも全くそれまでの試合と変わらなかった。


先攻は池田。
先発マウンドに立った桑田は一、二番を軽く片付けるも、三番の江上にセンター前ヒットを打たれた。
さらに四番の水野には右中間へのヒットを打たれ、たちまち二死一、三塁のピンチを迎える。
しかし、ここでPLの守備陣に目に見えないファインプレーがあった。
水野の長打を警戒し、センターの加藤は普段よりもかなり深く守っていたのである。
水野の当たりは普通なら右中間を抜けて長打になり、池田が1点先制するところだったが、加藤はこれを単打に食い止めた。
さらに五番の吉田衡が打った当たりは強烈なピッチャー返し。
センター前ヒットで池田の先取点かと思われたが、桑田がこの打球を好捕。
ピッチャーゴロになり、池田は初回、無得点に終わった。
もしこの打球がセンターに抜けていれば、やまびこ打線が大爆発し、桑田はKOされていたかも知れない。
桑田は自らの守備で自分を助けた。


1回裏、PLの攻撃。
池田の水野は最高の立ち上がりを見せた。
三振、ピッチャーゴロ、ピッチャーゴロとPLの上位打線を寄せ付けず、広島商戦での死球の影響は無いものと思われた。
しかし2回裏、高校野球ファンは信じられない光景を目の当たりにする。


二死一塁で打者は七番の小島一晃。
小島は控え捕手だったが、一回戦で正捕手の森上が怪我をしたため、二回戦から急遽先発のマスクを被るようになった。
そんな”脇役”の小島が高校球界ナンバー1投手の水野の速球を叩き、右中間に運んだ。
一塁ランナーの朝山が長躯ホームインし、PLが待望の先制点を得た。
しかしここまでは、池田ナインも甲子園の大観衆も、さほどの驚きはなかった。
桑田や藤本の投手陣なら、やまびこ打線はアッサリとひっくり返せると思ったからである。
だが、この直後に問題のシーンが起こった。


バッターは八番の桑田。
二回戦でホームランを打っているとはいえ、所詮は一年生投手。
誰もが水野の敵ではないと思っていた。
しかしそんな桑田に、中村監督は一つのアドバイスを贈っていた。
「流し打ちなんてチャチなことは考えるな。思い切って引っ張れ」と。


中村監督はこの年の春に毎日放送の解説者として招かれていた。
そのときに各校の水野対策に疑問を持ったのである。
どのチームも水野の速球に恐れをなし、流し打ちを狙っていた。
しかし、水野のような速球相手に流し打ちをすれば、振り遅れるだけではないか。
水野に対しては、引っ張るつもりで打てばちょうどいいのではないか。
中村監督はその通りのことを桑田に伝えた。


カウントはツーナッシング。
水野はのけぞらせようと、インハイのボール球を放るつもりだった。
しかしこのボールがストライクゾーンに入ってきた。
桑田はこの球を見逃さなかった。
中村監督のアドバイス通り、思い切りこの球を引っ張った。
打球は甲子園のレフトスタンド中段に飛び込む大ホームランとなり、PLは3点を先制した。
「大きく上がった!レフトは見上げるだけだ!真っ白いスタンドだ!ホームラン!背番号1の水野が背番号11の桑田に打たれました!」
朝日放送の植草アナはそう実況した。
これが水野が甲子園で初めて打たれたホームランだった。


水野の悪夢は続く。
九番の住田弘行は、今度はレフトラッキーゾーンへ二者連続のホームラン。
いつもは自分たちがやっていることを相手にやられ、水野はマウンド上で呆然と立ち尽くした。
下位打線の七、八、九番でまさかの4失点である。
さらに次の回でも1点を奪われ、四回裏では小島にも一発を浴びた。
重い速球が武器の水野が下位打線相手に3発の被弾。


そして七回には水野自らの暴投で、とうとう7−0の一方的リードを許す。
これが地方大会なら、この時点でコールドゲーム成立だ。
甲子園三連覇間違いなしと思われていた池田がコールド負け?
甲子園球場には異様な雰囲気が漂い始めていた。
池田の試合になると仕事の手を休め、テレビに見入っていた徳島県三好郡池田町役場の職員たちも、七回裏の時点で「とても見ちゃいられない」と、各々の職場に戻った。


一方、一年生投手の桑田は、相変わらずひょうひょうと投げていた。
得意の落ちるカーブを低めに投げ、やまびこ打線を手玉に取っていた。
振り回す池田の各打者は、完全に桑田の投球術に翻弄されてしまったのである。
たまにヒット性の当たりが出ても、バックの好守が桑田を救った。
桑田は「ランナーが出ていたほうが気が楽です。だって、二人いっぺんにアウトが取れますから」と言っていた。
ピッチャーからこんな発言が出るということは、この年のPLの守備陣がいかに堅かったかということを証明するものだろう。
さらに「打てるもんなら打ってみい!という気持ちで投げていました。打ってみい、と思って投げてホントに打たれたのは江上さんだけです。やっぱり江上さんは、エライやっちゃ」と嘯いていた。
この恐るべきプラス思考が、一年生エースの桑田を支えていたのだろう。


7−0とPLの一方的なリードで迎えた9回表、池田の最後の攻撃。
それでもPLの選手たちは「この回に10点ぐらい取られるんじゃないか」と思っていたという。
しかしその思いは杞憂に終わり、先頭の江上はレフトフライ、四番の水野はセンターフライでツーアウト。
もはや闘将・蔦監督に打つ手はなく、五番の吉田に変えて三年生の増富義明を代打に送った。
明らかに「三年生に甲子園を体験させる」温情の代打だったが、増富はショートフライを打ち上げ万事休す。
歴史的一戦はPLの完勝に終わった。
ちなみにこの時代、一世を風靡したPL、池田の両校が対戦したのはこの試合だけである。


高校野球の歴史を変えたとさえ言われるこの一戦は、現在では「当然の結果」とさえ言い切る人がいる。
当事者の水野は「僕たちは日本で一番強いと自惚れていましたが、本当に強かったのはPLの連中ですよ。センスが違います」と言っている。
確かにこの年の三年生で池田でプロ入りしたのは水野のみ。
その他の選手たちはプロ入りはおろか、大学、社会人では挫折を味わい、唯一大学で活躍したのは早大に進学した江上ぐらいか。
しかしPLの選手たちは、一年生の桑田、清原は当然のこと、三年生では加藤とサードの山中勝己がプロに進み、それ以外の選手でも大学や社会人で活躍している。


このあたりが「30歳代まで野球を友とできる選手を作る」という中村監督の指導が現れているのかも知れない。


(つづく)