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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

天才の覚醒前夜〜桑田真澄の高校時代(4)

1983年8月8日、第65回全国高等学校野球選手権記念大会が阪神甲子園球場で開幕した。
この大会で最も注目されたのは、史上初の夏春夏の三連覇を狙う池田(徳島)の存在だった。
前年夏は豪腕・畠山準(元・南海他)を擁し、初の全国制覇。
しかし畠山以上に注目されたのは、破壊力抜群の打線だった。
池田の選手たちは当時珍しかったウェートトレーニングに明け暮れ、夕食には学校近くにある「レストハウス・ウエノ」で肉料理を腹いっぱい食い、筋骨隆々の体を作り上げた。
当時のプロ野球西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の広岡達朗管理野球の全盛時代。
西武では自然食奨励で肉食を禁じられ、犠牲バントを中心とした緻密な作戦を駆使して連覇していた頃、甲子園では池田が金属バットを振り回し、他の高校を蹴散らしていた。
準々決勝では優勝候補の早稲田実(東京)を粉砕。
後にプロで活躍する荒木大輔(元・ヤクルト他)と石井丈裕(元・西武他)から14点を奪うという猛攻だった。
中でも三番の二年生・江上光治が荒木から先制2ラン、五番のやはり二年生だった水野雄仁(元・巨人)が荒木と石井から満塁を含むホームランを放っている。
決勝戦でも小技が売り物の名門・広島商を12−2で圧倒し、その名を轟かせた。
この大会で池田打線が放った本塁打7本は当時の新記録である。
畠山が卒業し、水野がエース、江上がキャプテンとなって翌春のセンバツに出場した。
センバツでも大暴れし、五試合で奪った総得点が34点、失点は僅かに2点で、水野は自責点0という、完璧な内容で夏春連覇を果たした。
打撃に関して言うと、数字的には最近の駒大苫小牧(北海道)や智辯和歌山の方が上だが、インパクトとしては当時の池田の方が圧倒的に上だろう。
池田打線は畏敬の念を込めて「やまびこ打線」と呼ばれており、この強力打線に相手投手は誰もが震え上がった。


83年の夏は、誰もが池田の三連覇間違いなしと予想していたが、それでも全国各地から「打倒池田」を目指す強豪たちが続々と名乗り出た。
野中徹博(元・阪急他)、紀藤真琴(元・広島他)の両エースを持つ名門・中京(愛知、現・中京大中京)、後にメジャーリーガーとなる吉井理人(元・近鉄他)を擁する箕島(和歌山)、打倒池田に燃えるセンバツ準優勝の横浜商(神奈川)、前年夏の準優勝・広島商、練習試合で池田を完封したサウスポー・仲田幸司(元・阪神他)の興南(沖縄)、センバツで唯一池田を苦しめた明徳(現・明徳義塾)を破って出てきた津野浩(元・日本ハム他)を擁する高知商などが打倒池田の有力校と言われた。
こうして書き連ねているだけでも、凄い逸材が揃っていた大会である。
この年の三年生は、いわゆる「昭和40年会」のメンバー。
ちなみに、このときの甲子園に出場していた選手には市尼崎(兵庫)のブンブン丸こと池山隆寛(元・ヤクルト)、マイク仲田以上と言われたサウスポー・創価(東京)の小野和義(元・近鉄他)、日本シリーズでの完封劇が記憶に残る佐世保工(長崎)の香田勲男(元・巨人他)、現在はパシフィック・リーグ審判員(関東)で「津田二世」と言われた豪腕・宇部商(山口)の秋村謙宏(元・広島他)など、枚挙にいとまがない。
高校としては他にも、センバツ4強で杉本双子兄弟が注目されていた東海大一(静岡)、同じく8強の駒大岩見沢(北海道)、そして初戦で池田に大敗した帝京(東京)が打倒池田を虎視眈々と狙っていた。


そんな有力校が集う中、PL学園はほとんど注目されず、評価としてはBクラスだった。
甲子園に出場すると、毎回優勝候補に挙げられるPLとしては珍しい現象である。
唯一話題になったのが一年生四番の清原だけであり、一年生投手の桑田はあまり知られていなかった。
理由は、大阪大会で完投したのが一試合だけであり、エースとは言えない内容だったからだろう。
それに、一年生が中心のPLでは打倒池田はとても無理、という評価もあったようだ。
大阪大会での戦いぶりも、完勝はほとんどなく、全国で勝ち上がるには実力不足と見られていた。


PLが大阪大会を勝ち進む中、一年前にPLを卒業して近畿大に進んだ植草裕樹が野球部寮の「研志寮」に住み込み、後輩の手伝いをしていた。
植草裕樹、という名前を聞いてピンとくる人がいるかも知れないが、この人物は朝日放送の名物アナウンサーだった植草貞夫の次男である。
植草アナといえば高校野球実況、そして阪神タイガース実況として有名だが、その次男坊がPL学園野球部に所属していたのだ。
そのほとんどが補欠暮らしだったが、たった一度だけ公式戦でベンチ入りした大会がある。
その大会とは植草裕樹が二年生のときの秋季近畿大会で、翌春のセンバツに直結する大会だった。
この大会で植草裕樹はたった一度だけ打席に立ち、結果は三振に終わった。
PLはこの近畿大会で優勝し、翌春のセンバツに出場して見事に優勝したが、植草裕樹はベンチ入りできなかった。
夏の大阪大会でもベンチ入りできず、植草裕樹にとって唯一の公式戦出場は二年秋の近畿大会での三振のみとなったのである。
僕が書いた野球小説「初夏の残像―Early summer has come in The Ballpark―」での主人公のモデルは、まさしくこの植草裕樹だ。


そんな植草裕樹が、憧れの夏の甲子園で戦うPLナインの気持ちを我が父の植草貞夫に伝えた。
なにしろ植草貞夫といえば、PLが初優勝した高知商との決勝戦での名文句が今でも語り草となっている。
準決勝での中京(現・中京大中京)戦で4点差をひっくり返し、決勝戦での高知商戦では九回裏に二点差を逆転して「奇跡のPL」言われたのだ。
PLが高知商に逆転サヨナラ勝ちで、初優勝が決まった瞬間の植草貞夫アナの実況。
甲子園の夏は終わった!サイレン鳴ってもう戦いはありません!PL学園、奇跡の優勝です!
植草貞夫にとって、このときの実況が一番心に残っているという。


「選手たちはみんな、一回戦でお父さんに実況してもらいたいって言っているよ」
植草裕樹は父親の植草貞夫に電話でそう言った。
植草貞夫はこう答えた。
「もう一回戦の担当が決まったからそれは無理だ。でも、決勝戦はお父さんの担当だから、決勝戦まで進出するように、選手たちに伝えてくれ」


この答えに植草裕樹は不満だった。
おそらくPLの選手たちも不満だったことだろう。


なにしろこの時点で、PLが決勝戦に進出するなど、誰一人信じていなかったのだから。


(つづく)