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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

国王in宮崎・11月18日―その2

ラグビー観戦のあと、喫茶店に立ち寄ってからmiyaさんと共に片岡さんのお好み焼き屋に向かった。
店内に入ると、前日とは違って片岡さんが元気にお好み焼きを焼いていた。
日曜日の午後6時過ぎとあって、実に忙しそうだった。
この店ではなんとお好み焼きの出前もしている。
この店が広島風のお好み焼きの店とはいえ、お好み焼きの本場である大阪人の僕には、お好み焼きの出前という発想は全く無かった。
考えてみれば、ピザの出前は当たり前なのだから、お好み焼きの出前も当然なのかもしれない。
それとも、大阪人は夕食にお好み焼きを焼くのは当たり前だから、わざわざ出前を取るまでもないと考えているのだろうか。


それはそうと、カウンターに座った僕たちは広島風お好み焼きを注文し、生ビール(miyaさんは下戸なのでウーロン茶)を一気に飲み干した。
その直後、一人の紳士が店に入ってきた。
僕とmiyaさんは顔を見合わせた。


あの人こそ、古葉竹識さんではではないか……。
お好み焼きを焼いていた片岡さんはすぐに古葉さん(と思われる人物)に駆け寄り、誰かに携帯で電話を掛けた。
どうやら古葉さん(と思われる人物)のお連れさんに電話を掛けているらしい。
古葉さん(と思われる人物)が来たのだから、お前も早く来い、と。
店主の片岡さん自身も、広島東洋カープ時代は監督だった古葉さんの下でプレーしていた身である。


やがて、片岡さんが電話を掛けていたと思われる男性が店に到着。
どうやら、この男性が古葉さんと片岡さんの店で食事する約束をしていたらしい。
後で聞いた話によると、この男性は本村信吾さんという元プロ野球選手で、中日に在籍した後に片岡さんとのトレードで広島に移籍したのだそうだ。
この奇妙な縁により片岡さんとの親交が生まれ、本村さんは現在、宮崎ゴールデンゴールズの監督代行コーチを務めている。
しかも、後で聞いた話によると、本村さんは大阪出身で、僕の出身地である富田林(PL学園で有名)に程近い羽曳野出身だということだ。
ちなみに羽曳野といえば、ダルビッシュ有の出身地でもある。


島風お好み焼きと牡蠣料理に舌鼓を打ちながら、僕とmiyaさんはチャンスを待った。
もちろん、古葉さんと接触するチャンスである。
夕食時間が過ぎていって徐々に客が減っていき、片岡さんも余裕が出たのか、厨房を離れて古葉さんと本村さんの席に座った。
ここしかない!と思った僕とmiyaさんは古葉さんのテーブルに押しかけ、店に来る前にコンビニで購入した色紙にサインを要求、さらに写真まで撮ってもらった。
それがこの日記のトップに貼られている写真である。
ちなみに色紙には「耐えて勝つ」と書かれてあった。
一線からは退いてからも「耐えて勝つ」である。


古葉さんはもう帰る時間だったのであまり質問はできなかったが、それでも訊きたいことがいっぱいあった。
だが、本人を目の前にすると膠着してしまい、ヘビに睨まれたカエルのように何も訊けないのである。
そんな時、miyaさんが「"江夏の21球"のことを訊いたら」と助け舟を出してくれた。


その前に、古葉竹識という野球人の来歴を見てみよう。
鹿児島生まれの熊本育ちで専修大から広島カープ入り。
プロ入り後は長嶋茂雄首位打者を争ったり、盗塁王を二度も獲得したりと活躍した。


しかし、古葉さんの真骨頂が発揮されるのはむしろ引退後、広島東洋カープの監督に就任してからだろう。
1975年、広島は日本プロ野球で初の外国人監督であるルーツを起用した。
しかしルーツは退場事件を巡り球団と対立、1ヶ月もたたないうちに退団し、コーチだった古葉さんが急遽監督に就任した。
この年は古葉監督の下、広島は快進撃を続け、とうとうお荷物球団と言われた広島東洋カープを初のセ・リーグ優勝に導いた。


そして1979年、絶対的なクローザーの江夏豊を得た古葉・広島東洋カープは二度目のセ・リーグ制覇を成し遂げた。
日本シリーズの相手はパ・リーグ初制覇の近鉄バファローズ(現・オリックスバファローズ)である。
広島と近鉄
どちらもお荷物球団と揶揄された過去があり、どちらが勝っても初の日本一だった。


この年の日本シリーズは3勝3敗で第7戦までもつれ込み、一進一退の攻防となった。


時は1979年11月4日、日本選手権第7戦の大阪球場、天気は小雨後に激しく降る、2回から全点灯の薄暮ゲーム、とスコアブックには記されている。
この頃、近鉄の本拠地は藤井寺球場日本生命球場を使用していたが、藤井寺球場は照明がなく、日生球場日本シリーズ規定である3万人以上のキャパシティがなかったため、ライバル球団である南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の本拠地である大阪球場を使用した。
幸い、手許に当時のスコアブック及び、山際淳司さんの名著である「江夏の21球」があるので、この二つの書物を元に検証してみよう。


1979年11月4日 大阪球場 観衆24,376人 試合開始13:00 試合終了15:29 試合時間2:29


広島 101 002 000=4
近鉄 000 021 000=3


伝説となった9回裏の攻防を見てみよう。
近鉄が1点取れば同点、2点取れば逆転サヨナラ勝ちで、悲願の日本一である。


(1)6番、羽田。初球を叩き、センター前ヒット。代走は韋駄天・藤瀬でノーアウト一塁。


(2)7番、アーノルド。1−2から藤瀬がスタート。キャッチャー・水沼の送球が逸れ、無死三塁に。アーノルドは四球で一塁に。代走は吹石、無死一、三塁。


(3)8番、平野。1−1から吹石がノーマークで盗塁成功。広島ベンチは平野を敬遠し、無死満塁。


(4)9番、代打佐々木。1−1からの3球目、叩いた打球はサードの三村の頭を越えて惜しくもファールに。結局、内角低めのカーブを空振りして、佐々木は三振に倒れた。一死満塁。


(5)1番の石渡。1球目、ど真ん中にストライクを放るが、石渡には打つ気が感じられない。
スクイズにきていると江夏は思うが、何球目かはわからない。
捕手の水沼のサインはカーブ。その2球目のカーブを投げるときに、石渡のバットが下がったのが江夏にはわかった。
と同時に、捕手の水沼が三塁ランナー藤瀬がスタートしたのを見抜いた。
水沼はスクイズを外そうと立ち上がった。
しかし、サインはカーブ。
江夏は暴投になるかも知れないと思いつつも、カーブの握りのままウェストした。
江夏のウェストが中途半端だったので、石渡はバットに当てることができると思ったが、江夏の握りがカーブだったため、前代未聞の「ウェストボールの変化球」に対応できず空振り、三塁ランナーの藤瀬はタッチアウトになった。
結局、石渡は内角低めのカーブを空振りして三振、広島東洋カープが初の日本一に輝いた。


ミーハーにも直前にコンビニで買った色紙に古葉さんのサインをいただき、上記のように写真まで撮らせていただいたにもかかわらず、古葉さんの前では何も質問できなかった。
だが、miyaさんが僕の背中を後押しして、「江夏の21球」のことを聞くように促した。
ぜひ訊きたい事柄だったが、これを訊くのは勇気がいった。
なぜなら、「江夏の21球」には、江夏による古葉監督批判ともとれる記述があったからである。
でも、思い切ってあの日のことを質問してみた。


問題は上記の(2)の部分である。
無死三塁、ここで古葉監督は北別府と池谷をブルペンに送り込んだ。
その動きを江夏は見ている。
広島のクローザーは江夏で、江夏と共に心中する覚悟だ、とシーズン中の古葉監督は言い続けていた。
勝ちゲームでは必ず江夏を投入する、江夏で負ければ仕方がない、と。


しかし古葉監督は、広島初の日本一がかかった日本シリーズの第7戦に、江夏のリリーフを用意したのである。
江夏は自らの目を疑った。
自分と心中すると言いながら、なぜリリーフを用意するのか。
江夏はもう、監督から信用されていない自分に憤りを感じたのである。


僕は上記(2)の、無死三塁での場面の質問を古葉さんにぶつけてみた。
もう一度書くが、このときに古葉監督は北別府と池谷をブルペンに送っている。


「あのときはねえ、延長戦を睨んでいたんですよ。もし同点になって、江夏に代打を出す展開になるかも知れない。そのときに慌ててリリーフを用意しても間に合わない。それにあの時、江夏は既に3イニングス投げていたんですよ」
ちなみに、もし延長戦になっていれば、池谷よりも北別府を先に登板させるつもりだったそうである。


たしかに、当時のペナントレースは3時間打ち切りで、日本シリーズは4時間半まで行うルールだったので、延長戦を睨んだ戦い方を強いられたのは当然だろう。
でも、日本一がかかった場面で、江夏の信頼を損ねるリリーフの用意が適切だったのか?


そして(4)では、一塁手の衣笠がマウンドに駆け寄り、江夏に声を掛けている。
その内容は、
「オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな」
というものだった。
要するに、江夏はリリーフを用意したベンチ(古葉監督)に憤りを感じ、衣笠がそれに同調するという、一種の首脳陣批判である。


古葉監督は言う。
「9回裏の時点で江夏を交代させる気は全くありませんでした。あるとしたら江夏は既に3イニングス投げさせていたし(注:正しくは7回2アウトからの登板で、9回裏終了時点では2回1/3)、延長戦になってからリリーフを用意していたのでは間に合わないと思いました」
さらに「無死三塁の時点でピッチングコーチをマウンドに行かせて、満塁になってもいいから守りやすい陣形を取れ、と指示を出しました」と語ってくれた。
普通で考えれば、1点アヘッドで9回裏の守りならば、絶対に同点のランナーは出したくない場面である。
しかし古葉監督は、逆転覚悟でも1点を守り抜け、という指示を出した。


問題となったウェストボールのシーン。
古葉監督はキャンプの時点から、スクイズ等でウェストする際は、サインのままの球種でボールを外せ、という練習をしてきたという。
ただ「江夏の21球」の場面で、スクイズを外せ、という指示はしなかった。


「江夏の21球」の19球目。
一死満塁で打者は石渡。
1−0からの2球目、石渡のバットが下がるのを江夏が見抜いた。
キャッチャーの水沼は三塁ランナーの藤瀬の動きでスクイズを察知した。
カーブのサインだったが、水沼は立ち上がり、江夏はウエストした。
石渡にとってバントできない球ではなかったが、サインがカーブだったので、曲がり落ちるウエストボールに対応できず空振り、三塁ランナーの藤瀬が刺殺された。
結局、石渡は三振に倒れ、古葉監督率いる広島東洋カープが初の日本一に輝いた。


時間は押していたが、僕たちはさらに質問を続けた。
1975年、広島東洋カープは日本球界初の外国人監督であるジョー・ルーツ体制で挑んだが、1ヶ月足らずで問題を起こし、ルーツは辞任。
監督の座を受け継いだ古葉さんの下で赤ヘル旋風を巻き起こし、広島初のリーグ優勝を成し遂げた。
miyaさんは「もしあの時、ルーツさんが指揮を執っていても、優勝できたと思いますか?」というド直球の質問に対し、古葉さんは「多分無理だったでしょう」と答えた。


こうして書いていると随分長い時間の会話とも感じられるが、実際に古葉さんとお話したのは20分足らず。
9時過ぎには古葉さんは帰ってしまった。
緊張してしまって、なかなか聞きたいことを聞けなかった。


でもこの後は、片岡さんと本村さんとの濃いトークに入っていく……。


(つづく)