ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

宿沢ジャパン平尾組〜W杯唯一の勝利〜その9

1991年10月14日、その日がやってきた。
ベルファストにあるラベンヒル競技場でジャパンの精鋭陣がジンバブエ代表を迎え撃った。
ベルファストはイギリス領、北アイルランドの「首都」である。
余談だが、「機動戦士ガンダム」に登場するジオン公国軍の女スパイ、ミハル・ラトキエが住んでいた街だ。
ガンダム世界では「宇宙世紀」と呼ばれる、現在からはかなり遠い未来で、ミハルはタイプで打った文章と写真をジオン軍に送るとき、風船にくくりつけて飛ばすという、超古典的な方法をとった。
未来の世界にはデジカメや電子メールというものは無いのだろうか?
と、話はダイレクト・タッチの如く無意味に逸れてしまったが、話を元に戻すと、ラベンヒル競技場は、ダブリンにあるランズダウンロード競技場と比べると、とてもテストマッチを行うような競技場とは思えない。
まるでアジア・太平洋2位×アフリカ代表の試合が、あらかじめ「消化試合」と想定されていたかのようだ。


しかし、ジャパンの面々は「消化試合」のつもりなど毛頭無かった。
日本から来たある記者は「(当時大学二年のCTB)元木由記雄(明大)をジンバブエ戦で試さないのか」と質問したが、宿沢はその問いかけを一蹴した。
テストマッチ、ましてやW杯で「選手を試す」ことなどありえないのだ。
今のジャパンで平尾―朽木のCTB陣は絶対に外せない。
テストマッチ」で選手の「テスト」などできるわけがない。


キャプテンの平尾は、結局はこの試合のためにはるばるヨーロッパまで来たのだ、と実感していた。
ジャパンはまだ、真のテストマッチスコットランドアイルランドに勝てるところまではいっていない。
宿沢ジャパン平尾組結成以来2年半の集大成はこのジンバブエ戦にかかっている、そう思った。
宿沢は試合前、選手たちに「勝ちたい、という想いが強いチームのほうが、今日の試合は勝つ」と語った。
FWリーダーの林の瞼から一筋の涙がこぼれ落ちた。


宿沢は二度、ジンバブエに行っている。
一度目はW杯アフリカ予選決勝戦のときだ。
ジンバブエ×チュニジアの予選決勝がジンバブエの首都ハラレで行われるという情報を得た宿沢は、偵察のために出かけた。
出かけた、というと近所みたいな感じだが、ジンバブエはあまりにも遠かった。
なにしろジンバブエまでの直行便など無い。
フランクフルト経由でハラレ入りするというルートで、30時間を機内で過ごすという、一泊四日の強行軍。
今度の偵察旅行では、韓国偵察のときと違い、ジャパンの監督としてジンバブエ協会に接触しようと考えた。
はるばる大陸を二つも越えて隠密行動をとるのもバカバカしい、そう思った。
ジンバブエ協会は宿沢を歓迎し、またこの試合で勝ってW杯出場を決めたため、宿沢をアフターマッチ・ファンクションに招待した。
試合の偵察はもちろんだが、このファンクション参加にこそ大きな意義があった。
なにしろ、ジンバブエの情報など何も無いに等しいのだ。
宿沢は積極的にジンバブエの役員や首脳陣、選手たちと話をして情報を掴んだ。
ここでも宿沢の社交性と英語力が大いに役にたった。
ジンバブエの選手たちと一緒に写真も撮っておいた。
宿沢との比較で体のサイズがわかる。
そんな中で、ジンバブエ協会のハッカー会長が、日本のチームをジンバブエに遠征させてくれないか、と頼んできた。
地理的に代表チームが他国のチームとなかなか接触できないし、外貨事情もあっておいそれと遠征もできない。
宿沢は、相手を知るメリットと、手の内をさらけ出すデメリットを考えたが「協会と相談しなければならないが、BチームかU23を遠征させて、ジンバブエ代表と対戦させてくれるならいい」と答えた。
ハッカー会長はそれでも良いと答え、宿沢が帰国してから連絡すると約束した。
楽しく有意義なファンクションを後にして、宿沢は慌てて空港に駆け込んだ。
ジンバブエの滞在時間は僅かに30時間。行き帰りの機内での時間の半分だ。
今度はロンドン経由で、宿沢は帰国した。


二度目のジンバブエ行きは、そのBチームの遠征だった。
しかし遠征直前に、試合は5試合、最終戦はBチームを出す、とジンバブエ協会が言ってきた。
ジンバブエ側も当然、手の内を知られたくなかったのだろう。
してやられたかと宿沢は思ったが、今さらもめるわけにもいかない。
W杯開催の僅か半年前である。
やむなくこの条件を受け入れ、宿沢は1年も立たないうちに再びジンバブエの土を踏んだ。
今度はBチームを引き連れてである。
5試合の結果は、日本側の4勝1敗で、宿沢はこの成績に満足した。
特に最終戦でのBチーム同士の試合で、接戦ではあったがノートライに抑えての勝利は大きかった。
ただし、Bチーム同士で勝ったからといって、代表同士の試合となると話は別だ。
でも、ジンバブエは5戦の間に代表クラスの選手を入れて、日本との試合を経験させたため、ある程度のジンバブエラグビーを知ることができた。
この意義は大きい。
このBチームのメンバーのうち、7名がW杯でジャパンのメンバーに選ばれた。
そして、試合以外でも大きな成果があった。
西サモアやトンガもそうだったが、異国の文化に触れることは実に貴重な体験だ。
試合が終わればノーサイド、アフターマッチ・ファンクションで対戦チームの選手たちと楽しい交流ができる。
宿沢は選手たちに試合だけではなく、こういうラグビー文化を体験して欲しいと考えていた。
また、毎日試合をするわけではないので、その国の名所に行くこともできる。
前回の「一泊四日」と違い、宿沢は今回の遠征で「ジンバブエ」という国をラグビー以外でも満喫した。
そしてこのアフリカの小国ジンバブエは、宿沢にとって後の人生に、深く心に刻まれることになる。


ジンバブエ遠征から6ヶ月、遂に北アイルランドの地でジャパンとジンバブエが激突した。
前半はジャパンの気合が空回りして、ゲームを支配しながらなかなかトライを奪えなかったが、後半にジャパンのBK陣が爆発した。
鮮やかなオープン攻撃を見せたジャパンに対して、ベルファストの観客たちはトライのたびに大きな拍手を贈った。
この試合は平日の昼間、しかも北アイルランドとはなんの関係もない。
だが、W杯開催ということでこの日の学校は休みとなり、大勢の子供たちが古びたスタンドに駆けつけていた。
子供たちだけでなく、ベルファストの大人たちもおそらく初めて目の当たりにしたのであろうジャパンの素早いオープン攻撃を存分に堪能した。
終わってみれば、今大会最多の9トライ。52−8でジャパンの圧勝だった。
この日のジャパンは、まさしく平尾の言う「集大成」を見せつけた。


かくして、宿沢ジャパン平尾組はワールドカップ初の1勝を挙げた。
そしてこのとき以来、ジャパンはまだW杯で勝利の感激を味わってはいない。
もちろん、宿沢ジャパンが相手(ジンバブエ)に恵まれたという見方もできるだろう。
だが、それだけだとは僕には思えない。
宿沢は常に情報収集し、テストマッチに相応しい選手を起用し、選手に対しては「テストマッチ」という言葉が持つ意味の深さと重要性をずっと説いてきた。
そして平尾誠二という最高のキャプテンシーを持つ選手を得て、ジャパンは寄せ集め集団ではなく一つの「チーム」として機能した。
ワールドカップを戦う、このたった一つの目標のために、チームがまっしぐらに走ってきたのがこの貴重な1勝に繋がったと思えるのだ。


2007年9月、第六回ラグビーワールドカップは開幕した。
今僕がこの原稿を書いている段階で、ジャパンはまだ初戦を迎えていない。
今から僅か5時間後、ジャパンはW杯初戦でワラビーズと対戦する。
過去のW杯で2回の優勝経験を持つワラビーズは、ジャパンにとって荷の重すぎる相手に思える。
だが、たとえ勝てなくても、この後の予選リーグに繋がるような試合を見せて欲しい。
今回のジャパンのスキッパー(ヘッドコーチ)は、オールブラックスの伝説的なWTBだったジョン・カーワン
不評のまま解任された前ヘッドコーチのピエール・エリサルドと違い、日本でもプレーをしたことがあるJKに対する期待は大きい。
ただ、ドタバタ劇の中で急にHC就任が決まったので、準備不足の不安は付き纏う。
また、ジャパンが誇るトライゲッターのWTB大畑大介神戸製鋼)の相次ぐ怪我で、攻撃力でも一抹の不安が残る。
それでもJKはNZ流を押し付けようとせず、ジャパンの特性を活かした戦法で戦うと明言している。
JKの、この言葉に期待したい。
できれば、第二回W杯のジンバブエ戦を忘れさせてくれるようなジャパンの勝利を見たい。


最後に、宿沢がジンバブエで体験した、「心の奥底に刻まれたもの」を書いてこの項を締めたい。
それは、世界三大滝の一つ、「ヴィクトリアの滝」である。
当時は「ワールドビジネスサテライト」のキャスターだった前防衛大臣小池百合子から「ヴィクトリアの滝を見ると人生観が変わるから、ぜひ行きなさい」と勧められていた。
宿沢は偶然にもジンバブエと対戦することになったのでジンバブエ遠征が実現し、ヴィクトリアの滝を体験できたのである。
もしジャパンがアフリカ代表と同じ組に入らなかったら、もしアフリカ代表がジンバブエではなくチュニジアだったら、宿沢はナイアガラの1.5倍というヴィクトリアの滝を見なかったと思われる。
宿沢は定年後のセカンドライフで、妻をヴィクトリアの滝に連れて行きたい、と語っていた。
ラグビー選手、ラグビー指導者、一流銀行マンとしてしか一般メディアに語られなかった宿沢が、初めて家庭人としての姿を見せた。
旅の楽しみである観光もショッピングもせず、家庭を顧みなかった自分をずっと支えてくれた我が妻と一緒に、雄大なヴィクトリアの滝を眺めて自分の人生を振り返りたい、宿沢はそんな希望を持っていた。
ジンバブエは宿沢にとって、W杯でのジャパン初勝利の相手ということ以上に、ラグビー界と銀行業務という厳しい世界を生き抜いてきた自分に、全く違う価値観を与えてくれたのだ。


しかし2006年6月17日、登山中に急逝。
享年55歳。
大自然に魅せられた男は、その自然の驚異によって、夢見ていた三度目のジンバブエ行きを阻まれた。


(完)