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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

東西南北で圧倒的に優勢な「西」

NHK総合テレビ「日本人のおなまえっ!」という番組が人気のようだ。

日本人の苗字に関するルーツを探る番組である(探るのは苗字だけではないようだが)。

 

なぜそんな苗字になったのか、それを探索するのは楽しいものだが、未だに謎のことがある。

それは、方角を示す苗字のうち「西」が圧倒的に多いのではないか、ということだ。

試しに、東西南北の苗字について調べてみた。

なお、情報元は「名字由来net」というサイトで、結果に意義がある人はそちらの管理人に文句を言ってもらいたい。

各苗字の日本全国での順位と、日本全国に存在する大体の人数を示してみる。

(データがない場合は*印)

 

●ズバリ、方角そのもの

①東 124位 152,000人(「あずま」を含む)

②南 199位 107,000人 

③西 242位 91,500人

④北 843位 22,800人

 

●後に「村」

①西村 44位 311,000人

②北村 116位 159,000人

③東村 3,341位 3,900人

④南村 5,190位 2,000人 

 

●前に「村」

①村西 4,621位 2,400人

②村北 13,621位 440人

③村東 33,516位 90人

④村南 *位 *人

 

●後に「田」

①西田 111位 164,000人

②北田 711位 27,800人

③東田 1,394位 12,100人

④南田 3,616位 3,500人

 

●後に「野」

①西野 316位 69,000人

②北野 375位 55,300人

③東野 1,033位 17,500人

④南野 1,917位 8,100人

 

●後に「本」

①西本 363位 56,500人

②北本 1,728位 9,200人

③東本 3,137位 4,200人

④南本 5,547位 1,800人

 

●前に「本」

①本西 12,390位 520人

②本東 29,954位 110人

③本南 56,772位 30人

④本北 78,763位 10人

 

●後に「山」

①西山 171位 124,000人

②北山 621位 32,100人

③東山 1,152位 15,500人

④南山 3,455位 3,700人

 

●前に「山」

①山西 1,338位 12,900人

②山北 2,348位 6,300人

山東 4,931位 2,200人

④山南 10,824位 650人

 

●前に「大」

①大西 103位 178,000人

②大東 1,895位 8,200人

大北 2,248位 6,700人

④大南 6,004位 1,600人

 

●前に「小」

①小西 193位 109,000人

②小南 2,089位 7,200人

③小北 5,004位 2,100人

④小東 6,157位 1,600人

 

●後に「口」

①西口 741位 26,500人

②北口 1,438位 11,600人

③東口 3,073位 4,300人

④南口 3,385位 3,800人

 

●後に「森」

①西森 1,108位 16,300人

②北森 4,586位 2,400人

③東森 6,360位 1,500人

④南森 30,763位 100人

 

●後に「脇」

①西脇 819位 23,500人

②北脇 3,509位 3,600人

③東脇 15,799位 340人

④南脇 32,009位 100人

 

●後に「川」

①西川 114位 162,000人

②北川 215位 102,000人

③南川 2,021位 7,600人

④東川 2,179位 6,900人

 

●前に「川」

①川西 825位 23,300人

②川北 1,451位 11,500人

③川東 3,818位 3,200人

④川南 7,357位 1,200人

 

他にも東西南北が付く苗字は多いのだが、キリがないのでここまでにしておく。

見てもらえれば一目瞭然、思い付くままに苗字を並べただけなのに「西」の圧勝である。

決して「西」が多い苗字を選んだわけではない。

 

一文字のみの東西南北では「西」は3位に甘んじているものの、それ以外では全て1位だ。

そして、ほとんどの苗字で、西>北>東>南、となっている。

漢字二文字以上の苗字で「西」と「北」が優勢なのは、二つともカナ読みで二文字だからだろう。

「東」と「南」はカナ読み三文字なので、漢字二文字以上となると読みが多すぎて、苗字には向かないのだろう。

逆に漢字一文字の場合は、カナ読み二文字では物足りないので「西」「北」は少ないのだろう。

 

カナ読み数の理由を抜きにしても「西」の多さは異常である。

同じカナ読み二文字の「北」と比べても「西」の方が圧倒的に多い。

たとえば「西村」さんのルーツは、読んで字の如く中央の村(「中村」さんのルーツ)から見て「西」の方にある「村」が由来だが、中央の村が基準ということは当然のことながら東や南、北の方にも村はあったはずで、西の方にだけ特別に村が多かったわけではあるまい。

にもかかわらず「西村」さんがダントツで多いのである。

なぜ西側以外の人たちは「東村」「南村」「北村」とあまり名乗りたがらなかったのだろうか。

 

また、日当たりがいいはずの「南」の少なさも気になる。

「東」も日出ずる方向で命の源なのに、いくらカナ読み三文字でもなぜこんなに少ないのか、理由がわからない。

「東」さんは「西」さんに勝っているものの、「東」さんと「東村」さんを合わせても(約16万人)、同じルーツの「西村」さん1人(約31万人)にほぼダブルスコアの完敗なのだ。

 

このあたりの謎は「日本人のおなまえっ!」で究明してもらいたいものだ。

 

【追記】

どうやら既に「日本人のおなまえっ!」で、この謎が解き明かされていたようだ↓

日本人の名前っNHK 東・西・南・北のつく名字から分かる、昔の人々の暮らし | Writerzlab

 

「西の川」の象徴・淀川(大阪)

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名古屋・福岡ドボンクイズ

前回の「東京・大阪編」に続く第2弾。

このクイズは10人で行って欲しい(「Qさま!!」でよくある形式のドボンクイズ)。
1人ずつ答えていって、ドボンの答え言ったら負けという方式だ。

ただし今回は前回とは逆で、名古屋市内・福岡市内に「ある」施設や場所を答えるとドボンにより負けとなる。
 
●名古屋編
以下の11個の施設・場所のうち、名古屋市内に存在しないものが10個ある。
残りの1つは名古屋市内にある施設・場所で、それを答えたらドボンで負けとなる。
愛知県民以外の10人を集めて、ドボンを答えないように全員クリアを目指してくれたまえ。

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(アイウエオ順)
愛・地球博記念公園
イチローの出身地
犬山城
中京競馬場
中部国際空港
⑥都市緑化植物園
豊田スタジアム
名古屋飛行場
日間賀島
ミツカン・ミュージアム
明治村
 
●福岡編
以下の11個の施設・場所のうち、福岡市内に存在しないものが10個ある。
残りの1つは福岡市にある施設・場所で、それを答えたらドボンで負けとなる。
福岡県民以外の10人を集めて、ドボンを答えないように全員クリアを目指してくれたまえ。

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(アイウエオ順)
沖ノ島
九州国立博物館
九州鉄道記念館
スペースワールド
太宰府天満宮
能古島
松田聖子の出身地
松本清張記念館
三井三池炭鉱
門司港レトロ
八幡製鐵所
 
正解は後日発表する。

東京・大阪ドボンクイズ

このクイズは10人で行って欲しい(「Qさま!!」でよくある形式のドボンクイズ)。

1人ずつ答えていって、ドボンの答え言ったら負けという方式だ。

 

●東京編

以下の11個の施設・場所のうち、東京23区内に存在するものが10個ある。

残りの1つは東京23区にはない施設・場所で、それを答えたらドボンで負けとなる。

東京都民以外の10人を集めて、ドボンを答えないように全員クリアを目指してくれたまえ。

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(アイウエオ順)

有明コロシアム

大井競馬場

石神井公園

④田園調布

東京国際空港

東京スカイツリー

東京スタジアム

東京体育館

東京大学

⑩東京ドーム

東京武道館

 

●大阪編

以下の11個の施設・場所のうち、大阪市内に存在するものが10個ある。
残りの1つは大阪市にはない施設・場所で、それを答えたらドボンで負けとなる。
大阪府民以外の10人を集めて、ドボンを答えないように全員クリアを目指してくれたまえ。

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(アイウエオ順)

あべのハルカス

大阪城ホール

大阪ドーム

大阪府立体育会館

海遊館

新大阪駅

天保山

長居陸上競技場

万博記念公園

フェスティバルホール

ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

 

正解は後日発表する。

 

 

南森町の謎

大阪市内に南森町という地名がある。

地下鉄2路線の駅名であり、JRも通っていて近くには大阪天満宮もあるので、大阪では知られた地だ。

 

ところが、南森町があるのは北区。

北なのになぜか南なのだ。

 

まあ、そんなことはままあるだろう。

そもそも大阪市内には「西中島南方」なんていうワケのわからん駅名がある。

ところが、南森町というからには他に「森町」と付く地名がありそうなものだが、これがないのだ。

大阪市北区には北森町も東森町も西森町も、さらには中心たるべき森町すらない。

なぜ森町は南にしかないのか。

 

あるいは「南」の「森町」ではなく、「南森」の「町」なのかも知れない。

しかし、この近くには「南森」の由来となるものは何もない。

ちなみに苗字で「南森」さんというのは、日本全国で100人ほどしかいないという珍名さんだ。

「西森」さんは16,300人ほどいるのに、「南森」さんは極端に少ない。

「東森」さん(約1,500人)や「北森」さん(約2,400人)も多いとは言えないが、「南森」さんよりはずっと多いのだ。

つまり、この辺りに「南森」さんが住んでいて、それが地名の由来になったとは考えにくい。

 

ところが、調べてみると南森町の北側にはかつて、北森町があったというのだ。

1872年(明治5年)に南森町と北森町が生まれたが、1978年(昭和53年)の町名変更で北森町の方は消えてしまったらしい。

南森町の方は、駅名にもなって浸透していたので生き残ったという。

実は明治時代以前の江戸時代には既に南森町という地名はあったようで、その時には北森町もあったのだろう。

 

ではなぜ「森町」という地名はないのか。

南森町」しかないというのは、「浦和駅」「東浦和駅」「西浦和駅」「南浦和駅」「北浦和駅」と、「浦和」が全て揃った埼玉県さいたま市とは大違いだ(他にも「中浦和駅」「武蔵浦和駅」「浦和美園駅」と、「浦和」が付く駅は8個もある)。

 

実は南森町の「森」とは、大阪天満宮の鎮守の森のことらしい。

つまり、鎮守の森の南側が南森町で、北側が北森町というわけだ。

鎮守の森に町は作れないので「森町」はないということか。

なるほど、これで南森町の謎は解けた。

今後、北森町が復活するとは考えにくいので、南森町は永久に孤独な存在なのだろう。

 

南森町という地名の由来となった大阪天満宮

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ネタラン史上最多

2017年8月27日、我がネターランド王国の1日におけるヒット数が1万2254ヒットとなり、史上最多記録となりました。

これもひとえにネタラン国民の皆様のおかげと感謝しております。

 

実はこれにはカラクリがあって、この日の夜にTBS系列でPL学園時代の桑田真澄の同級生で控え投手だった田口権一のことが紹介されていました。

ネタランでは田口権一のことを何度か書いていたので、テレビを見た人が「田口権一」で検索をしてネタランに辿り着いたのでしょう。

いやあ、地上波テレビの威力は恐ろしい💦

aigawa2007.hatenablog.com

 

ただ、番組ではちょっとオーバーな表現があって、桑田一年時の大阪大会決勝で田口が先発したのは確かですが、初回に田口が打球を受けて降板した時、中村監督から「桑田、お前が投げろ」と言われて、桑田は「ヒェェェェ!」と驚いてたけど、この時点で桑田は事実上のエースになってました。
それに、田口の後をリリーフしたのは三年生の東森で、桑田が投げたのは9回の締めくくりだったのです。

 

でも、入学時には同じ一年生でも桑田より田口の方が注目されていたのは事実です。

たしかに、田口がピッチャー返しの打球を受けていなければ、彼の野球人生も変わっていたかも知れません。

192cmの長身が、プロのマウンドに立っていたかも……。

 

2017年夏、高校野球で最も弱かった高校は?

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第99回全国高等学校野球選手権大会花咲徳栄(埼玉)が初優勝した。
つまり今年の夏、高校野球で最も強いチームは花咲徳栄、ということになる。
 
では、一番弱い高校はどこだったのだろう?
それを調べるには、地方大会の初戦で敗れたチーム同士で、負け進んで行く逆トーナメントをするしかないが、もちろんそんな大会を開催する主催者がいるわけがない。
 
そこで、地方大会初戦で敗れた高校に勝った高校が次の試合で敗れて、その高校に勝った高校がまた次の試合で敗れて……、という形で「一番弱い高校」を選定するしかない。
もっとも、だからと言ってそんな方法で一番弱い高校を指定できるわけではないが、そこはご容赦いただきたい。
なお、昨年夏の最も弱かった高校はこちら
(昨年の記事を読めばわかるが、今回の記事は校名以外はほとんど去年のコピペだ。なお、一昨年の記事も同様)
 
地方大会から調べていくと大変だが、甲子園の決勝戦から逆算していけば、容易に探り当てることができる。

 

甲子園大会
勝戦  ○花咲徳栄(埼玉)14-4広陵(広島)●
準決勝  ○広陵(広島)12-9天理(奈良)●
準々決勝 ○天理(奈良)13-9明豊(大分)●
三回戦  ○明豊(大分)9x-8神村学園(鹿児島)●(延長12回)
二回戦  ○神村学園(鹿児島)3x-2京都成章(京都)●

 

京都成章は二回戦からの登場なので、夏の甲子園で最も弱かった高校は京都成章ということになる。
なんと、1998年に準優勝した京都成章(この年、春夏連覇したのが松坂大輔を擁した横浜)が今夏の甲子園最弱校というわけだ。
だが、前述したように、本当に最も弱いというわけではないので、関係者の皆様はお気を悪くなさらないように。
 
さて、京都成章は京都代表の高校なので、今夏の日本一弱い高校は意外なことに野球どころと呼ばれる京都府にある。
では、今夏の京都大会を見てみよう。

 

京都大会
勝戦  ○京都成章12-6龍谷大平安
準決勝  ○龍谷大平安8-0西城陽●(8回コールド)
準々決勝 ○西城陽5-3北稜●
四回戦  ○北稜2-1京都共栄
三回戦  ○京都共栄11-4南陽●(8回コールド)
二回戦  ○南陽3-1堀川

 


というわけで、二回戦からの登場のため今夏の日本一弱い高校は堀川と決定した。
くどいようだが、本当に日本一弱いというわけではないので、そこはお許しいただきたい。
まあ、この学校に勝った高校は、次の試合では必ず負けるのだから、弱いというよりは呪いをかけられた、と言った方が適切な気がするが。
 
では、堀川とはどういう高校なのか?
調べてみると、1908年(明治41年)に開校した歴史の古い、男女共学で京都市立の高校である。

1999年(平成11年)には「探究科」なる科が設置され、その1期生が卒業した2002年(平成14年)には国公立大学の現役合格者が6人から106人と一気に激増し「堀川の奇跡と呼ばれた。 

そして現在でも、京都大学東京大学に進学する者は50~70名ほどいるという進学校である。

 

有名なOB・OGとしては、俳優の故・藤田まこと(中退)がいる。

そしてバイオリニストの葉加瀬太郎は卒業生。

北朝鮮拉致被害者家族の一人である横田早紀江さんも卒業しているが、皮肉なことによど号ハイジャック事件の犯人の一人が堀川の卒業生だ。

スポーツ関係では、元ラグビー日本代表萬谷勝治が卒業している。

他にも有名人は大勢いるが、これぐらいにしておこう。

 
硬式野球部は、1956年(昭和31年)春に甲子園出場し、なんとセンバツ8強に進出した。

だが、甲子園出場は春も夏も、この1回のみ。
そして、今夏は前述のように初戦敗退、今春の京都大会でも初戦敗退している。
しかし、新チーム結成時の昨秋の京都大会では一次予選の一回戦で敗れたものの、敗者復活戦では1勝を挙げており、本当に弱いわけではない。
 

新チームになった今秋の京都大会では、第一次予選の相手は京都国際と決まっている。
62年ぶりとなる来春のセンバツ出場を目指して頑張ってもらいたい。

甲子園球児の「食う寝る所に住む所」

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阪神甲子園球場で行われている第99回全国高等学校野球選手権大会もたけなわである。

日本全国から甲子園に集まってきた高校球児たちが、日本一を目指して戦っているわけだ。

 

当然、遠くからやって来た球児が自宅から甲子園に通う、なんてことはできない。

全ての高校球児たちは、甲子園の近くにある宿舎に寝泊まりしているわけである。

現在発売中の「Number933号(文藝春秋社)」では、それに関する記事が掲載されているので、興味がある人は読んでみるといい。

 

球児たちが利用する宿舎は、当然のことながら甲子園球場がある兵庫県西宮市を中心に、神戸市や宝塚市、大阪空港がある伊丹市辺りに集中している。

もちろん、兵庫県に近い大阪市や、大阪府豊中市池田市吹田市守口市などに泊まる高校も多い。

甲子園から一番遠い所にあるのは大阪府堺市で、南海本線堺駅に直結するホテル・アゴーラリージェンシー堺に泊まる高校もあって、「あんな高級ホテルに高校球児が泊まるのかよ」と驚いたものだ。

 

現在、多少の例外はあるが、各都道府県代表の宿泊施設は日本高等学校野球連盟高野連)によって決められている。

前述の「Number」にも書かれているが、以前はそういう取り決めもなく、地方大会の段階で上位進出した高校は、宿の確保に苦労したという。

なにしろ夏休み、しかもお盆の季節が重なるので、部屋が空いている宿舎があるとは限らない。

しかも、地方大会で敗れてしまえばキャンセルしなければならないのだ。

さらに、初戦敗退ならすぐに宿を引き払うことになるが、勝ち進んだ時に備えてその分の部屋を確保しておかなければならない。

宿にとっては、お盆の時期の書き入れ時に部屋を確保しておきながら、早々と敗退されては商売上がったりになるのだ。

そういう問題も鑑みて、高野連が間に入って確実に宿を確保できるようにしたという。

 

そのあたりの事情を利用したのが、漫画家の水島新司

甲子園の時期になると、水島新司は初戦敗退した高校の宿に飛び込みで部屋を確保するのだ。

当然、部屋が空いているのは計算済みである。

そのため、甲子園周辺の宿をわざわざ予約する必要はない。

高校野球には興味がなくても、たとえば春休みや夏休みにUSJなどへ遊びに行きたい人は、大阪のホテルが満室でもこの手を使えるだろう。

 

水島新司が描いた漫画「ドカベン」では、主人公の山田太郎が通う明訓高校と、ライバル校である土佐丸高校が甲子園では一緒の宿舎になっていた。

ライバル校同士が同じ宿舎に寝泊まりしながら、お互いの動きを牽制し合っていたのが、この漫画の大きな魅力となっていたのである。

もっとも、この頃にはまだ「この県の代表校はこの宿舎」という取り決めはなかった。

 

桑田真澄清原和博などが甲子園で大活躍していた1980年代、PL学園が甲子園に出場した時には、PLでは宿舎を取らずに大阪府富田林市にある野球部寮から甲子園に通っていた。

富田林は堺よりも遥かに甲子園から遠かったのだが、それでも野球部寮から通うメリットの方が大きかったのである。

寮に住んでいると普段と変わらない生活ができるのだから、いつもと同じような実力を発揮しやすい。

しかも、グラウンドは目の前にあるのだから、普段と同じ練習はいつでもできる。

他の高校は、高野連からあてがわれたグラウンドで練習できるものの、自由に時間を選択できるわけではない。

つまり、甲子園入りすることによって、いつものリズムが狂ってしまうのだ。

その点、PLは普段と同じリズムで野球ができる。

もっとも、他校のように修学旅行的な気分を味わうことが出来ず、いつもと同じ単調な生活で選手たちには退屈だっただろうが……。

 

上宮も富田林市の隣りにある太子町に野球部寮があって、甲子園に出場してもそこから甲子園に通っていた。

理由はPLと同じである。

ただし、現在ではそういう特例は認められず、PLや上宮(上宮太子も)は大阪代表校が宿泊する大阪市内のホテルに泊まるようになった。

 

このように、宿泊施設によって不公平が生じたり、あるいは宿泊料が高騰することを懸念して、オリンピックのような選手村を造ればいいのではないか、という機運が高まったことがあった。

それが、1985年にオープンした西宮市の兵庫県立総合体育館、通称「球児村」である。

 

兵庫県立総合体育館は阪神タイガース二軍の本拠地である阪神鳴尾浜球場の隣りにあり(当時はまだ鳴尾浜球場はなかったが、近くに高野連指定の練習用球場があった)、甲子園へは車で約10分と実に便利な場所に立地している。

そして何よりも料金がリーズナブル、他のホテルや旅館に比べて半分程度の料金で宿泊できたのだ。

さらに、体育館だけあって投球練習やティー打撃程度なら可能、そして有料ながら器具が揃ったトレーニング施設も充実していたのである。

甲子園出場校にとって、これほど有り難い施設はあるまい。

事実、「球児村」がオープンした当初は、春夏問わずに1大会5校程度の学校が兵庫県立総合体育館を宿泊施設として利用していたのだ。

 

しかし、現在ではこの「球児村」を利用している高校はない。

いつの間にか、兵庫県立総合体育館は「球児村」としての機能を失ったのだ。

その理由はよくわからない。

ただ、甲子園周辺の宿泊施設から「球児村」の設立に反対があったのは事実である。

いくら先の読めない甲子園球児の受け入れとはいえ、ホテルや旅館にとっては有り難い団体客であり、しかも宣伝にもなる。

それに兵庫県立総合体育館も、49校もの甲子園球児を宿泊させるのは困難だったのだろう。

 

そして、何よりも大きかったのは「球児村」が球児にとって不評だったということだ。

選手が泊まる部屋は、僅か8畳に2段ベッドが3つも並ぶ6人部屋。

まさしく、ベッド以外は何もないわけで、試合や練習で疲れて帰って来ても、くつろげる空間は全くない。

部屋にはテレビもなく、さらに「寝るだけの部屋」にもかかわらず、消灯時間になるとエアコンまで切られてしまうので、暑苦しくて寝られたもんじゃない。

大広間でくつろいだり、涼しい部屋で安眠できるホテルや旅館とは大違いだ。

 

それ以上に大きかったのが、食事面での不満。

食事は全てセルフサービス、5校もいるので(当時では75人)お盆を持って長い時間を並ばなければならない。

その間に料理は冷えてしまい、しかも味気ないオカズばかり。

1人当たりの食事量は決められているので、食欲旺盛な球児たちにはとても物足りない。

他校の選手たちは、ホテルや旅館側も採算を度外視してステーキだスキヤキだと豪勢な料理をふるまうので、そんな話を聞くたびに「羨ましい。なんで俺たちは甲子園まで来て、こんな不味い物を食わなきゃいけないんだ」と気持ちが萎えてしまう。

 

こういうこともあったせいか、「球児村」は僅か数年でその幕を閉じることとなってしまった。