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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

番狂わせ十番勝負!プラスワン

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番狂わせ」という言葉を広辞苑で引くと、こう書かれている。

 

①予想外の出来事で順番のくるうこと。
②勝負事で予想外の結果が出ること。

 

二つの語義に共通するのは「予想外」というワードだ。

「番狂わせ」という言葉を額面通りに受け取ると①のみになる。

②の場合は、ノックアウト式トーナメントなら本来勝ち上がるはずの者(チーム)が負けると組み合わせが変わるので「番狂わせ」という意味が当てはまるが、総当たりリーグ戦の場合はどちらが勝っても組み合わせは決まっているので、文字通りの「番狂わせ」ではないだろう。

しかし、やはり総当たりリーグ戦でも②のように「番狂わせ」という言葉が使われるのだ。

つまり、戦国時代でいう「下剋上」という意味でもある。

 

勝負の世界、特にスポーツの世界においては、しばしば「番狂わせ」が起きる。

そして「番狂わせ」が起きた時、例外なく人々の心に残るドラマが生まれるのだ。

そんな「番狂わせ」を10戦、独断と偏見で選んでみた。

もっとも、筆者が忘れている試合があるかも知れないし、順位も筆者が思い付きで付けただけなので、異論があってもそこはご容赦いただきたい。

(日付は全て現地時間)

 

第10位

岩崎恭子(競泳)

1992年7月27日 バルセロナ・オリンピック 競泳女子200m平泳ぎ決勝

ピコルネル・プール 2分26秒65 金メダル

 

水泳版:藤井聡太四段とも言える岩崎恭子

いや、藤井聡太四段を「将棋版:岩崎恭子」と呼ぶべきか。

1992年にスペインで行われたバルセロナ・オリンピックで、全く無名の女の子が日本中の脚光を浴び、世界から注目されることになった。

競泳女子200m平泳ぎで、当時の五輪新記録を叩き出して金メダルを獲得した岩崎恭子は、当時まだ弱冠14歳6日。

五輪まで、世界記録保持者のアニタ・ノール(アメリカ)に6秒近くも差があったのに、ピコルネル・プールでの決勝では残り10mでノールを逆転しての金メダルだった(ノールは銅メダル)。

競泳史上最年少の金メダル獲得であり、日本にとっても史上最年少の五輪メダル獲得。

「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉は日本中を感動させ、また誰もが心の中で「そらそやろ」とツッコんだ。

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第9位

ニューヨーク・メッツ×ボルチモア・オリオールズ(MLB)

1969年10月16日 ワールド・シリーズ 第5戦

シェイ・スタジアム ニューヨーク・メッツ4勝1敗 初の世界一

 

1962年、メジャー・リーグ(MLB)のエクスパンション(球団拡張)によって、ナショナル・リーグに誕生したのがニューヨーク・メッツだった。

しかし、同じニューヨークにある老舗球団のアメリカン・リーグに所属するニューヨーク・ヤンキースと違い、メッツは「お荷物球団」と呼ばれるほど弱小で、1年目などは40勝120敗、勝率.250というウソみたいな成績でダントツの最下位。

ところが、球団創設8年目の1969年にはペナント・レースから突っ走り初の東地区優勝、そしてこの年から始まったリーグ・チャンピオンシップ・シリーズ(プレーオフ)では西地区優勝のアトランタ・ブレーブスに、全米国民が椅子からすっ転ぶ3連勝(当時は5回戦制)で初のリーグ優勝。

そしてワールド・シリーズでは、圧倒的有利と言われたア・リーグボルチモア・オリオールズと対戦、初戦を落としたものの、その後は4連勝して4勝1敗により誰も予想しなかった初の世界一を奪還した。

「お荷物球団」からの奇跡の世界一は「ミラクル・メッツ」と呼ばれ、シェイ・スタジアムを埋め尽くしたニューヨークっ子を狂気させたのである。

日本でいえば、球団創設9年目で初の日本一に輝いた東北楽天ゴールデンイーグルスのようなものか。

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第8位

貴花田×千代の富士(大相撲)

1991年5月12日 夏場所 初日

両国国技館 〇貴花田(寄り切り)千代の富士

 

大関の初代・貴ノ花次男として、鳴り物入りで角界にデビューした貴花田(後の横綱貴乃花)。

先場所では平幕ながら11連勝を飾り、夏場所では西前頭筆頭まで番付を上げてきた。

初日では優勝31回を誇る「小さな大横綱千代の富士との取組。

上手の取り合いから先に左上手を引いた貴花田千代の富士を寄り切り、世代交代を目の当たりにした両国国技館の観衆から座布団が舞った。

千代の富士は2日後「体力の限界!」という言葉を残して引退した。

父の初代・貴ノ花に敗れた優勝32回の大横綱大鵬もその一番によって引退しており、親子二代にわたり大横綱に引導を渡したことになる。

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第7位

阪神タイガース×西武ライオンズ(NPB)

1985年11月2日 日本シリーズ 第6戦

西武ライオンズ球場 阪神タイガース4勝2敗 初の日本一(2リーグ分裂後)

 

1936年に始まった日本プロ野球(NPB)で最古参メンバーの阪神タイガース

しかし、1950年に2リーグ分裂してからはセントラル・リーグ優勝が僅かに2度、1964年を最後に20年間も優勝していなかったため「ダメ虎」と呼ばれていた。

だが1985年のペナント・レースでは、宿敵の読売ジャイアンツ戦でのランディ・バース掛布雅之岡田彰布によるバックスクリーン3連発など打線が爆発、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。

迎えた日本シリーズパシフィック・リーグの覇者は当時最強と言われた西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)。

下馬評では投手力に勝る西武が絶対的有利だったが、阪神は一発攻勢で西武を圧倒、4勝2敗で2リーグ分裂後初の日本一となったのである。

敵地・西武ライオンズ球場では吉田義男監督が胴上げで宙に舞い、500km以上離れた大阪では大熱狂の渦となった。

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第6位

ジェームス・ダグラス×マイク・タイソン(ボクシング)

1990年2月11日 WBA・WBC・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦

東京ドーム 〇ジェームス・ダグラス(10回KO)マイク・タイソン● 王座移動

 

1980年代後半から無敵を誇っていたヘビー級プロボクサーのマイク・タイソン

WBA・WBC・IBFの三冠王者として来日、1990年2月11日に東京ドームでジェームス・ダグラスの挑戦を受ける。

この日まで37戦全勝(33KO)の成績と23歳という若さが溢れるタイソンと、世界王座の経験が無くて29歳という下り坂のダグラスとの対戦。

当然、試合前の予想ではタイソンが圧倒的に有利、アメリカのオッズでは42対1と賭けが成立しない比率だった。

もはや、どちらが勝つかではなく、タイソンが何ラウンドでKOするかという一点のみに焦点が絞られていた。

ところが、試合が始まるとタイソンの動きにいつものキレがなく、ダグラスは8ラウンドの最後にダウンを奪われたものの、10ラウンドには遂にタイソンを捉え、左ストレートで見事にKO勝ちした。

タイソンはプロ入り後初の敗戦、以降は転落の人生を歩むことになる。

一方のダグラスも、8ラウンドでの自身のダウンは10秒以上倒れていたという「疑惑のロング・カウント説」が囁かれ、10ヵ月後の初防衛戦ではイベンダー・ホリフィールドに3回KOで敗れて100日天下に終わり、ボクサー人生としては短いものとなった。

しかしダグラスは「タイソンに初めて勝った男」として、ファンにその名前を刻みつけたのである。

余談ながらこの日の前日、東京ドームでは元横綱双羽黒北尾光司がプロレス・デビューし、クラッシャー・バンバン・ビガロにピン・フォール勝ちした。

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第5位

日本×ブラジル(サッカー)

1996年7月22日 アトランタ・オリンピック グループ・リーグ

マイアミ・オレンジボウル 〇日本1-0ブラジル●

 

サッカー世界最強国のブラジル。

このアメリカでのアトランタ・オリンピックから男子サッカー競技は23歳以下という縛り以外にオーバーエイジ枠が設けられ、ブラジル五輪代表は3人のオーバーエイジによるA代表選手を加えた。

一方の日本五輪代表オーバーエイジ枠を使わず文字通り23歳以下代表、A代表経験者は僅かに2名という布陣だった。

予想では当然、A代表に劣らぬスター軍団のブラジルが圧倒的に上、日本の西野朗監督は選手が自信を無くすことを恐れて、ブラジルの試合ビデオは見せなかったという。

グループ・リーグ第1戦、アトランタから遠く離れたフロリダ州のマイアミ・オレンジボウルで行われた日本×ブラジルは予想通り、ブラジルが一方的に攻める。

しかし、ブラジルの猛攻を日本のGK川口能活がゴールを死守、0-0のまま試合は進み後半27分に日本はワンチャンスを活かし、MF伊東輝悦がゴールを決め、1-0でブラジルを振り切った。

シュートはブラジルの28本に対し日本は僅か4本、試合前の予想と相まってこの試合は「マイアミの奇跡」と呼ばれる。

ただ、日本は2勝1敗ながら得失点差によりグループ・リーグ突破はならず、ブラジルは決勝トーナメントに進出し銅メダルを獲得した。

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第4位

オグリキャップ(競馬)

1990年12月23日 第35回有馬記念

中山競馬場 2分34秒2(2着に3/4馬身) 1着

地方の笠松競馬場から中央競馬に進出、圧倒的な力を見せ付けた「芦毛の怪物」オグリキャップ

しかし、6歳(当時は数え年)を迎え、さすがの怪物も衰えを見せていた。

直前の天皇賞(秋)ジャパンカップでは惨敗を喫し、暮れの有馬記念が引退レースになることが決まっていたのである。

単勝オッズでも4番人気、それもどちらかといえば同情票のようなもので、オグリキャップの復活を信じている者は少なかった。

オグリキャップには、それまでは敵となることが多かった武豊が騎乗、最後の直線から一気に抜け出し、メジロライアンをかわして奇跡の復活優勝を遂げた。

中山競馬場には、競馬では異例となる「オグリ・コール」の大合唱(オグリキャップには意味がわかってたのだろうか?)、ラストランでの1着は「オッサンのバクチ」というイメージが強かった競馬が一気に社会的地位を上げることになり、イメージ・アップに計り知れない貢献をしたと言えよう。

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第3位

三沢光晴×ジャンボ鶴田(プロレス)

1990年6月8日 三冠統一ヘビー級挑戦者決定戦 60分1本勝負

日本武道館 〇三沢光晴(24分8秒 片エビ固め)ジャンボ鶴田

 

昭和の終わりから平成に年号が移る頃、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは、ジャンボ鶴田天龍源一郎という二大エースによるライバル関係が人気を博していた。

ところが1990年4月、大企業のメガネスーパーが新団体SWSを設立、そのエースとして天龍を引き抜かれ、全日本プロレスは大ダメージを受けたのである。

しかも、天龍一派と目されるほとんどのレスラーはSWSに移籍し、全日本プロレスは選手層が薄くなって、年内には崩壊するだろうとさえ言われた。

何よりも、鶴田のライバルがいなくなったことが大打撃となったのである。

しかし、ニュースターは突然現れた。

それまで2代目タイガーマスクを名乗っていた三沢光晴がマスクを脱ぎ捨て、鶴田に牙を剝いたのである。

素顔時代の三沢は知名度がなく、また軽量でヘビー級としての実力も疑問符が付いていたため、鶴田への挑戦は無謀と思われた。

なにしろ鶴田は日本最強と言われた完全無欠のエース、本気で怒らせたら敵うレスラーなど1人もいないと思われていたのである。

1990年6月8日の日本武道館、誰もが鶴田の圧勝を信じて疑わなかったが、鶴田の猛攻を必死で耐える三沢の姿を見て勝負の行方はわからなくなり、そして遂に一瞬の返し技により鶴田からピン・フォールを奪ったのだった。

この一戦は全日本プロレスを窮地から救った試合と言われ、実際にこの試合を境にして一気に全日本プロレス・ブームとなったのである。

三沢は、それまで虎の仮面を被ったアイドル・レスラー、あるいは単なるテクニシャン程度の評価でしかなかったが、鶴田を破ったことにより全日本プロレスのエースとしての道を歩み出した。

その三沢と鶴田、2人とももう既にこの世にはいない。

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第2位

PL学園×池田(高校野球

1983年8月20日 第65回全国高等学校野球選手権記念大会 準決勝

阪神甲子園球場 〇PL学園7-0池田●

 

1982年夏、83年春と史上4校目の夏春連覇を果たした池田(徳島)。

83年夏も史上初の夏春夏3連覇を目指し、阪神甲子園球場に乗り込んで来たのである。

池田は圧倒的な力で準決勝まで進出、3連覇は間違いなしとさえ言われた。

準決勝の相手、PL学園(大阪)はエースの桑田真澄と四番打者の清原和博がいずれも一年生で、一年坊主が中心のチームに戦後最強の池田が負けるわけがないと思われていた。

しかし、池田のエース水野雄仁から桑田が超特大のホームランを放ち、投げても桑田が池田の強力な「やまびこ打線」を完封するなど、PLが7-0で圧勝。

勢いに乗ったPLは決勝でも横浜商(神奈川)を破り、5年ぶり2度目(春夏通算4度目)の優勝を果たした。

この瞬間から甲子園の主役は池田からPLに移り、桑田・清原のKKコンビによるPL時代に突入したのである。

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第1位

日本×南アフリカラグビー

2015年9月19日 第8回ワールドカップ プール・ステージ

ブライトン・コミュニティ・スタジアム 〇日本34-32南アフリカ

 

過去7回のワールドカップに全て出場していた日本代表の戦績は、1勝21敗2分という惨憺たるもの。

そんなジャパンにとって、2015年ワールドカップのプール戦での初戦の相手は、過去2回のワールドカップ優勝を誇る南アフリカ代表(スプリングボクス)。

当然、この大会でも優勝候補の一角に挙げられていた

試合前の予想も何も、少しでもラグビーを知っているなら、ジャパンがスプリングボクスに勝つと思っていた人なんて1人もいなかっただろう(内緒だが、筆者はネタランで「ジャパンはスプリングボクスには絶対に勝てない」と断言していた)。

いや、エディ・ジョーンズ:ヘッドコーチに鍛えられたジャパンの31人の精鋭以外は。

イングランドのブライトン・コミュニティ・スタジアムで行われた試合は、ジャパンのタックルが次々にスプリングボクスの大男に突き刺さり、予想に反して一進一退の攻防。

29-32でジャパンの3点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半40分、ジャパンは敵陣5mまで攻め込んで相手反則によりペナルティ・キックを得た。

しかしジャパンは同点確実のペナルティ・ゴール(3点)を狙わずに、あくまで逆転に拘ってスクラムを選択。

ジャパンはスクラムから出たボールを左右オープンに振り回して相手ディフェンスを翻弄し、最後はWTBカーン・ヘスケスが逆転トライを決めた。

「最も番狂わせが起きにくいスポーツ」と呼ばれるラグビーで、スプリングボクスに34-32で逆転勝ちしたこの試合は「ブライトンの奇跡」と呼ばれ、史上最大のジャイアント・キリングと世界各国からも賞賛の嵐、「ハリー・ポッター」の作者であるJ・K・ローリングは「こんな物語はとても書けない」とまで言ったのである。

だが、ジャパンは3勝1敗ながら勝ち点により予選プール敗退、「最強の敗者」と言われ、スプリングボクスは決勝トーナメントに進出して3位となった。

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以上、いわゆるアップセットと呼ばれる勝負を10試合選んだが、共通しているのはいずれも「その時、歴史が動いた」ものである、ということだ。

そのほとんどが、新鋭(14歳の岩崎恭子など)が当時最強と謳われた者(チーム)を破ったものだが、中にはオグリキャップのように引退を決める勝負で鮮やかに勝った場合もある。

そして「番狂わせ」とは単なるスポーツ界の出来事に留まらず、社会現象ともなるのだ。

 

番外編

ゼットン×ウルトラマン(地球防衛)

1967年4月9日 ゼットン星人による地球襲来

科学特捜隊日本支部基地付近 〇ゼットン(波状光線)ウルトラマン

 

地球侵略を企む数々の怪獣を倒してきたウルトラマン

しかし、ウルトラマンの必殺技スペシウム光線も、宇宙恐竜ゼットンの前には通用しなかった。

逆にゼットン波状光線によりウルトラマンのカラータイマーを直撃、遂にウルトラマンは初敗北を喫した。

地球を守る絶対的ヒーローが悪の怪獣に敗れる、これ以上の番狂わせはあるまい。

だが、ウルトラマンの死後に科学特捜隊の岩本博士が開発したペンシル爆弾により、ゼットンは一発でアッサリ破壊された。

ウルトラマンですら勝てなかったゼットンに、いつも怪獣に歯が立たなかった科特隊が圧勝したというは、史上最大の番狂わせと言えるだろう。

そして、ウルトラマンが負けるシーンを目の当たりにした子供の頃の前田日明は、ゼットンを倒すべく格闘家への道を歩むのだった。

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”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語⑦~鉄壁の春夏連覇編

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毎年8月1日に行われるPL花火芸術(大阪府富田林市)

 

★1987年夏(阪神甲子園球場
 第69回全国高等学校野球選手権大会

●一回戦

中央 000 020 000=2
PL 100 001 05x=7

 

●二回戦

九州学院 000 002 000=2
P  L 222 000 10x=7

 

●三回戦

高岡商 000 000 000=0
P L 300 010 00x=4

 

●準々決勝

習志野 000 100 000=1
P L 200 011 00x=4

 

●準決勝

PL 231 200 202=12
帝京 000 210 020=5

 

●決勝

P  L 110 200 001=5
常総学院 000 000 110=2

 

センバツ制覇で自信を付ける

桑田真澄(元:巨人ほか)、清原和博(元:西武ほか)という、いわゆるKKコンビが抜けた翌年はセンバツ初戦敗退、夏の甲子園は不出場となり、暗雲が立ち込めたPL学園(大阪)。

しかし2年後の1987年に春のセンバツで優勝し、PLは再び高校野球の頂点に返り咲いた。

特にこのチームは、秋季大阪大会で3位、近畿大会では準決勝敗退と決して下馬評は高くなかっただけに、センバツ優勝ですっかり自信を付けたのである。

 

春季大阪大会では、センバツで腰を痛めていたエース左腕の野村弘(現:弘樹。元:大洋・横浜)を休ませて、センバツではリリーフ・エースとして活躍した右腕技巧派の岩崎充宏を中心とした投手陣で勝ち進み、優勝。

続く近畿大会でも、圧倒的な強さを発揮して近畿王者となったのである。

 

打線では、センバツ二塁打を量産し、打撃開眼した片岡篤史(元:日本ハムほか)が四番に上がってきた。

筆者は、片岡の中学時代を知っている人から聞いたことがあるが、その頃はハッキリ言って大した選手ではなかったらしい。

センバツでも下位の七、八番を打っていた。

 

センバツまで四番に座っていたのは深瀬猛

前年夏の甲子園では二年生ながら浦和学院(埼玉)の主砲として活躍していた鈴木健(元:西武ほか)と並び称され、「左(東)の鈴木健、右(西)の深瀬」と呼ばれるほど、深瀬はプロ注目の長距離砲だった。

その深瀬を押しのけて四番の座を奪ったのだから、片岡の急成長ぶりがわかるだろう。

なにしろ片岡は、PL卒業後は同志社大を経てプロ入り、日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)が誇ったビッグバン打線の中軸を担うようになるのだから。

もっとも、キャプテンだった立浪和義(元:中日)は後に「アッちゃん(片岡のこと)が四番やねんから、全然強力打線とちゃうやん」と憎まれ口を叩いていたが……。

 

しかし、片岡が四番に入ることによって、立浪―片岡―深瀬という左・左・右のクリーンアップ・トリオが完成、センバツでは五番を打っていたピッチャーの野村を七番に下げて、打線は厚みを増した。

さらに投手陣は野村の腰痛が癒えて、岩崎は春季大会で経験を積み、右腕本格派・橋本清(元:巨人ほか)の剛速球もますます冴えてきた。

近畿大会に優勝したからと言って大阪ではシード校制度はないのだが、夏の大阪大会ではもちろんダントツの優勝候補に挙げられていたのである。

 

◎苦しんだ夏の大阪大会

だが、日本一のレベルを誇る大阪は、そう甘くなかった。

四回戦では、強豪の上宮に先発の野村が捕まり、2回で3点を失ってKO。

しかし、片岡や深瀬のホームランなどで逆転に成功、投手は橋本―岩崎と繋ぎ、8-5で上宮をなんとか振り切った。

 

準決勝は公立校の桜宮。

今度は好調だった打線が苦しみ、苦戦するも3-0でなんとか桜宮を下す。

朗報だったのは、野村が9回完投、さらに完封したことだった。

8月1日のこの日、PL学園がある大阪府富田林市では教祖祭PL花火芸術(トップ写真参照)が開催された。

毎年恒例の行事とはいえ、まるで甲子園出場の前祝いのようだった。

ちなみに夏の甲子園不出場の年は、硬式野球部員は花火終了後の清掃を強いられる。

筆者はこのアルバイトをしたことがあるが、バイト料は一晩1万円で(夜食付き)、その仕事をPL野球部員はタダ働きさせられるのである。

 

決勝の相手は「打倒PL」に燃える近大付。

近大付は後年に甲子園制覇を果たすことになるが、この頃は常に大阪大会の上位に食い込むも、あと一歩のところでいつも甲子園出場を逃していた。

その大きな壁となっていたのがPLだったのである。

特に1983年には秋季近畿大会で準決勝に進出し、翌春のセンバツ出場は当確と思われていたものの、KKコンビのPLに2度続けて2ケタ失点の大敗が問題となり「投手力が弱すぎる」ということでセンバツ出場はならなかった。

だから、近大付の合言葉は「甲子園に出よう」ではなく「PLに勝とう」だったのである。

その執念が近大付のエース・門脇太に乗り移った。

PLの強力打線を0点に抑えていく。

一方のPL先発の野村も好投、0-0のまま遂に9回裏、PL最後の攻撃となった。

ここでPL打線は集中力を見せ、一死から三連打で一死満塁とした。

打者の野村が放った打球はセンター前へ。

PL得意のサヨナラ・ゲームで甲子園行きを決めた。

甲子園を含む今夏の大会で、PLが最も苦しんだのがこの近大付戦である。

そのため、この年の近大付は「幻の全国2位校」と呼ばれた。

 

◎春とは対照的な戦いぶり

夏の甲子園にやって来たPL、もちろん春の大会前とは違い優勝候補の大本命だった。

その象徴的な存在だったのが、春は腰痛で苦しんだエース野村である。

大阪大会の準決勝と決勝では2日続けての完封勝利、完全復活を遂げていた。

大会の焦点はただ一つ、PLの春夏連覇を阻む高校はどこか、である。

 

この大会は、好投手が目白押しだった。

大会№1の剛腕と噂された尽誠学園伊良部秀輝(元:ロッテほか)、伊良部と並ぶ速球派と言われていた佐賀工(佐賀)の江口孝義(元:ダイエー)、1年夏から甲子園のマウンドに立っている沖縄水産(沖縄)の上原晃(元:中日ほか)、総合力№1・東亜学園西東京)の川島堅(元:広島)、北の鉄腕・函館有斗(現:函館大有斗南北海道)の盛田幸妃(元:大洋ほか)など。

だが、PLの野村、橋本、岩崎の投手陣は、彼らに全く引けを取らなかった。

実際に、野村と橋本は高校卒業後にプロ入りし、岩崎はプロ入りしなかったものの常にプロから狙われる存在だったのだ。

全国的にも10本の指に入る投手が、PLには3人もいたわけである。

 

PLは大会初日から登場、中央(現:中央中等、群馬)と対戦した。

中央は初出場の県立校ながら、監督は1978年春のセンバツで甲子園史上初の完全試合を達成した松本稔ということで注目を集めていたが、下馬評では圧倒的にPLが上。

だがPLは初回にいきなり1点を先制したものの、5回表に野村が捕まり、2点を奪われて逆転された。

PLは6回裏に1点を返して同点に追い付くが、楽勝の予想が大きく外れて大苦戦。

しかし8回裏、一死満塁からセンバツでラッキー・ボーイだった六番・長谷川将樹の右前打で勝ち越すと、七番・野村の三塁打など打線が爆発し一挙5点、守りでも6回以降はリリーフ登板の橋本がキッチリ締めて、7-2で善戦の中央を退けたのである。

野村の不調は誤算だったが、腰痛が治ったことで野村が降板しても春と違ってそのまま外野守備に就くことができ、打線の厚みが変わらなくなったことは大きな成果だった。

試合後、PLの中村順司監督は逆転された場面について「選手を信頼するしかなかった」と語っている。

 

ノーマークの中央に苦戦したことで、PLは一皮むけた。

二回戦の相手は強豪の九州学院(熊本)。

PLは初回、立浪の2ランで2点先制。

2回裏には今夏から一番打者となった、センバツでホームランを放っている尾崎晃久の2ランで4-0と突き放す。

さらに3回裏には右の長距離砲・五番の深瀬が甲子園初ホーマーとなる2ラン。

なんと、初回から3イニング連続2ランでPLが6-0と圧倒的優位に立つ。

PL先発の野村が6回表に2点を失うとすぐさま岩崎にスイッチ、九州学院打線の火を消し止めて、結局はPLが7-2で九州学院を一蹴した。

 

三回戦は北陸の名門・高岡商(富山)と対戦。

初回、PLは五番の深瀬がレフトのポール際へ2試合連続ホームランとなる3ランを放って3点先制。

さらに5回裏には深瀬が今度は流し打ち、右翼線タイムリ二塁打で4-0とリードを広げる。

PL先発の野村は内角速球で高岡商を7回まで無失点に抑えるが、8回表には先頭打者に三塁打を許し、無死三塁の大ピンチ。

ここでPLの中村監督は伝令を送り、「1点取られたら橋本に交代」と野村に告げた。

この通告に野村は発奮、この回を無失点で切り抜け、終わってみれば甲子園初完投、初完封のオマケまで付き、4-0で高岡商を破ってベスト8に駒を進めたのである。

野村のみならず、この年のPLにとって、センバツを含めて甲子園で初めての完投投手となった。

 

準々決勝の相手は、夏の甲子園2度の優勝を誇る公立校の星・習志野(千葉)。

習志野は三回戦で大会屈指の剛腕・佐賀工の江口を3回KOし、12-4で大勝している。

その「速球に強い」習志野打線に対し、PLの中村監督は江口と並ぶ速球派・橋本を先発マウンドに送った。

「投げたくてウズウズしているのがわかった(中村監督)」という甲子園初先発の橋本は、初回から豪快に飛ばした。

一番打者の城友博(元:ヤクルトほか)から3者連続三振のスタート。

その裏、PL打線は習志野のエース綿貫健一の立ち上がりを捉え、いずれも左中間を破る立浪の三塁打と片岡の二塁打で2点先制、左打者の流し打ちがアンダースローを攻略した。

5回裏には、捕手ながらこの試合から二番に上がった好調・伊藤敬司二塁打を足掛かりに1点追加、6回裏にも伊藤のタイムリーで4点目を奪う。

橋本は4回表に1点を失ったものの、11奪三振の力投で甲子園初完投を飾った。

この試合のヒーローは完投勝利の橋本と、女房役の捕手・伊藤のバッテリー。

「PL唯一の弱点は捕手の肩」と言われながら、ベース一周14秒0の城をはじめ、過去3試合で12盗塁と走りまくった習志野を相手に1盗塁を許したものの、1人は刺した。

あまり盗塁を仕掛けなかった習志野について、伊藤は「僕の強肩に恐れをなして走って来なかったのでしょう」といたずらっぽく笑った。

センバツでは打撃不振だったうえにサインの見逃しがあったため、決勝戦は控え捕手の松下仁彦にマスクを譲ったが、夏にその失敗を取り返したと言える。

父親読売ジャイアンツの辣腕スカウトだった伊藤菊雄。

伊藤はPL卒業後も大学、社会人で野球を続けていたが2015年、父の菊雄が亡くなった2ヵ月後に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病により死去。

46歳という若さだった。

 

◎芝草攻略の秘訣

準決勝は、センバツ準々決勝で延長11回サヨナラ勝ちした帝京(東東京)との対戦。

春の雪辱に燃える帝京のエース芝草宇宙(元:日本ハムほか)は二回戦の東北(宮城)戦でノーヒット・ノーランを達成、準々決勝まで3試合連続完封と調子を上げてきている。

この二都決戦が事実上の決勝戦と言われていた。

 

さらに、PLには一抹の不安があった。

これまでファースト片岡、サード深瀬だったのが、この試合ではファースト深瀬、サード片岡と守備変更を行っていた。

実は準々決勝の習志野戦で、一塁走者の深瀬が牽制球で帰塁した時に右肩を脱臼してしまったのである。

だが深瀬は準決勝も五番打者として強行出場、とはいえ一塁送球もままならなかったのでファーストに就いたのだった。

 

1回表、PLは二番の伊藤が右中間へ三塁打を放ち、一死三塁のチャンスで打席には三番のキャプテン立浪。

立浪は甘く入ったカーブを狙い打ち、今大会2号となるライトへの2ランにより、PLが2点先制した。

この試合で中村監督が出した指示は「打順が奇数の打者は変化球、偶数打者はストレートを狙え」という、相手投手に狙い球をわからせない作戦だった。

2回表、さらにPL打線は芝草に襲い掛かり、二死無走者から5連打で一挙3点、芝草をKOし5-0と試合を有利に進める。

3回表には右腕を使えない五番の深瀬が左腕一本でライト前ヒット、七番・長谷川の左越え二塁打で1点追加、そして4回表にも深瀬がスクイズを決めて8-0の一方的リードとなった。

ただし、今秋のドラフト上位指名確実と言われていた深瀬は脱臼のためプロ入りは断念、大学および社会人で野球を続けるも右肩に脱臼癖が付いてしまい、右打者では大会№1の長距離砲もプロ入りすることはなかった。

 

PL先発の野村は4回裏に2点、5回裏に1点を失い橋本と交代。

野村は完投できなかった悔しさをバットにぶつけ、7回表には右中間へ甲子園初ホーマーとなる2ランを叩き込み、強打者ぶりを見せ付けた。

橋本は8回裏にランニング・ホームランを浴びて2点を失うも、大量リードに守られてゆうゆう交代完了。

結局、PLは12-5の完勝で難敵中の難敵・帝京を返り討ちにした。

 

◎因縁の監督対決

勝戦の相手は初出場の新興校・常総学院(茨城)。

常総学院は今春のセンバツにも初出場しているが、実は補欠校で東海大浦安(千葉)の出場辞退による代替出場であり、明石(兵庫)に0-4と全くいいところがなく初戦敗退している。

夏の甲子園でもほとんどノーマークだったが、エースの島田直也(元:日本ハムほか)を中心にあれよあれよと勝ち上がり、遂に決勝まで進出してきた。

しかも、決して相手に恵まれたわけではなく、二回戦では上原を擁する沖縄水産を7-0、三回戦では剛腕・伊良部の尽誠学園を6-0といずれも完勝、準々決勝では名門・中京(現:中京大中京、愛知)に7-4で逆転勝ち、準決勝では大会№1投手の川島を擁する東亜学園に延長10回の末サヨナラ勝ちしての、堂々たる決勝戦進出。

その原動力となったのが、朴訥とした茨城弁で有名だった木内幸男監督である。

 

3年前の1984年夏の甲子園、KKコンビ二年時のPLは決勝に進出し、県立の取手二(茨城)と対戦した。

試合前の予想ではPL有利だったが、延長10回の末に取手二が8-4でPLを下したのである。

その時の、取手二の監督だったのが木内だった。

取手二はノビノビ野球で絶対王者のPLを翻弄、その手腕は「木内マジック」と呼ばれた。

だが、取手二を甲子園初制覇させた直後に「公立校では強力チームを毎年作ることは困難」と新設校の常総学院に転校したのである。

自らを「プロの高校野球監督」と呼び、その野球理論はプロ野球の指導者でも敵わないと言われ、この試合で一年生ながら三番打者の重責を担った仁志敏久(元:巨人ほか)は「プロ、社会人、大学を含めて、木内監督以上に野球を知っている人はいなかった」と語っている。

「戦略の知将」木内監督と、3年前のリベンジを図る「奇策を好まない技術屋」中村監督との、監督対決も注目された。

 

PLは、右肩脱臼の深瀬が遂にスタメンを外れ、代わってサードに入ったのが二年生の宮本慎也(元:ヤクルト)。

1回表、PLは二死一、三塁のチャンスで、この日は深瀬欠場で五番に上がって来た長谷川。

センバツで勝負強い打者に変身した長谷川は中前打を放ち1点先制。

さらに2回表には、深瀬の代役・宮本の三塁打をきっかけに1点追加、そして4回表に夏は九番に下がっていた蔵本新太郎三塁打と一番・尾崎の犠牲フライで4-0とリードを広げる。

 

PLの先発・野村は安打を許すも要所を締め、6回まで無失点ピッチング。

しかし7回裏、尾崎の悪送球により1点を失うと降板、リリーフに出て来たのは橋本ではなく、二回戦以来の登板となる岩崎。

常総打線は上原や伊良部といった剛球投手を打ち崩しており、橋本のような速球には強いと判断したのだろう。

岩崎は後続を断ち、8回裏には1点を失うものの、4-2で2点リードのまま最終回を迎えた。

 

9回表、またもや長谷川の中前適時打で1点を加えたPLは3点リードで優勝に保険を掛けた。

9回裏、常総学院最後の攻撃で、マウンドに立つのは「第三の投手」岩崎。

粘る常総学院は一年生・仁志のバント・ヒットなどで無死一、二塁のチャンスを作る。

「最後はお前に投げさせる」と中村監督は野村に言っていたがそのまま岩崎が続投、四番、五番を連続三振に打ち取った。

そして最後の打者はショート・ゴロ、キャプテン立浪が捕って二塁の尾崎にトス、5-2で常総学院を破った。

PL学園、遂に史上4校目となる春夏連覇の偉業を達成!(2017年春現在では計7校)

 

この試合のヒーローは深瀬の代わりに五番打者となった長谷川であり、深瀬の代役でこれまでほとんど出番がなかった二年生の宮本であり、胴上げ投手となったのは登板機会が少なかった岩崎だった。

「それまではほとんど投げてなかったのに、一番オイシイところを持って行ってしまって……」と岩崎は照れていたが、脇役が活躍した夏の決勝戦こそが、この年のPLを象徴していたと言える。

 

キャプテンの立浪は「僕たちの代の三年生は春と夏、どちらかの優勝メダルを全員が持っている。それが一番嬉しい」と語っていた。

春夏連覇を達成したPL学園の33期生は17名が全員、春と夏の甲子園でどちらかに必ずベンチ入りしているのだ。

しかも全員が、何らかの形で試合に出ているのである。

春のセンバツではベンチ入りメンバーから漏れた中西聡は、夏の甲子園では6試合中4試合にレフトとして先発出場していた。

やはり春にはベンチ入りしていなかった住野弘亘は、33期生の中では珍しい近畿以外(香川)の出身で、夏の甲子園では九州学院戦で代打出場、1打数1安打と10割の打率を残している。

逆に、センバツ決勝では先発マスクを被り「優勝キャッチャー」となった松下は、夏の大阪大会直前で盲腸になってしまい、夏はベンチ入りから外れた。

同じくセンバツではレフトのレギュラー、セカンドも経験した西本篤史も、大阪大会決勝で右手人差し指を負傷し、夏の甲子園を諦めている。

成松紀彦センバツでは代打と代走で2試合に出場、死球を浴びただけで打数は無し、夏は大阪大会からメンバーを外れた。

センバツでは代走のみで1試合に出場した吉本守も夏の大阪大会でベンチ入りから外れ、甲子園に出場しない選手を集めた在日韓国人チームのキャプテンに就任し、夏休みには韓国に遠征して「韓国版・夏の甲子園」こと鳳凰大旗全国高等学校野球大会に出場している。

残念だったのは、二年夏に急死した南雄介が甲子園の土を踏めなかったことだ。

 

夏の甲子園の閉会式後、ベンチ入りした15人のメンバーは深紅の大優勝旗を持った立浪主将を先頭に、優勝行進で甲子園を一周した。

センバツには出場しながら、夏の甲子園ではベンチ入りから外れた三年生たちがいる一塁側のアルプス・スタンドでは、PLにとって初めてとなる「春夏V」の人文字が躍った。

 

◎KK世代と連覇世代、どっちが強い?

苦戦続きだった春と違い、夏のPLは盤石の優勝だった。

6試合でリードを奪われたのは中央戦の1試合、しかも1イニングだけ。

さらに6試合全てで初回に点を奪うという、常に先手を取る楽な試合運び。

エース級3人を持つ贅沢な投手陣、上位から下位まで全くムラが無く一発あり小技ありの打線、水も漏らさぬ堅い守備は「総合力野球」「鉄壁野球」と呼ばれた。

春は「逆転のPL」を再現する粘りの野球、夏は選手層の厚さを利し安定した強さを見せ付けた野球。

 

ここで疑問となるのが「桑田、清原のKK世代と春夏連覇世代、どちらが強いのか?」ということだ。

キャプテンの立浪らは口を揃えてこう言う。

「僕らの世代は全然大したことない。そりゃ桑田さんや清原さんらの方がずっと強いですよ」

一方の清原はどうか。

「10試合すれば6勝4敗でアイツらが勝ち越すやろ。でも、甲子園での一発勝負やったら俺らが勝つ」

中村監督はこう答える。

「そんなこと、監督の私からはよう言いません。でも、どうしても答えろと言うのなら……。ここは先輩を立てて桑田、清原らということにしときましょか」

 

プロ(NPB)入りの人数で言えば、KK世代は桑田、清原、松山秀明内匠政博今久留主成幸の5人。

一方の連覇世代は野村、橋本、立浪、片岡の4人(二年生の宮本は除く)でKK世代の勝ち。

ただ、連覇世代では深瀬が右肩脱臼さえなければプロ入りは間違いなかったと思われ、さらに岩崎もプロ入り寸前まで行っていた。

KK世代では、前述の5人の他にプロ入りの可能性があったのは、将来性を買って身長192cmの控え投手・田口権一ぐらいではないか。

しかも、連覇世代の4人は全員がプロで活躍したが、KK世代で実績を残したのは桑田と清原の2人だけだった。

 

桑田真澄実弟で連覇世代の桑田泉は中学時代、エースで四番として活躍し「兄の真澄より上ではないか」と言われて鳴り物入りでPLに入学した。

その桑田泉が入学直後のインタビューで「投げる方では橋本、打つ方では深瀬が凄いんです」と、自分の実力は一年生の中でも全然、と答えていた。

実際、桑田泉は怪我もあって実力を発揮することはできず野手に転向、三年時に外野の控えとしてベンチ入りするも、春夏の甲子園での先発出場は3試合に留まった。

つまり、連覇世代にもKK世代に決して劣らない選手が集まっていたのである。

ただそれでも、KK世代が三年生となった1985年、一年生だった連覇世代でベンチ入りした選手は1人もいなかった。

さすがにそこは「戦後最強」と謳われたKK世代の実力が圧倒的だったということか。

 

KK世代の特徴は、良くも悪くも桑田、清原の2人が抜きん出ていたことだ。

もちろん、他のメンバーも実力者が揃っていたが、KKがマークされると途端に機能しなくなる。

その典型となったのが1985年春のセンバツ準決勝、伊野商(高知)戦だ。

清原は伊野商エースの渡辺智男(元:西武ほか)に3三振と完璧に抑え込まれ、桑田も伊野商打線に捕まり、1-3で苦杯を舐めた。

KK世代は、勝つ時には同年夏の東海大山形(山形)戦のように29-7という豪快な勝ち方をするが、反面もろさも併せ持つ。

 

一方の連覇世代は、春にはチーム力が完成してなかったものの伝統の粘りで優勝し、夏は完璧なチームとなって連覇を果たした。

投手陣は、野村が打たれたら橋本、それがヤバいとなると岩崎をすぐに投入するという、タイプの異なる3投手を揃えている。

打線では、立浪がダメでも片岡がおり、片岡がダメなら深瀬、3人ともダメなら脇役がカバーするという選手層の厚さを見せ付けた。

特に夏の連覇世代は、KK世代にはなかった安定した戦いぶりだったのである。

 

「立浪らのチームは、私は何も指示する必要はなかった。私が何かを言う前に、キャプテンの立浪がナインに指示してくれたから」

中村監督はそう語る。

つまり監督の考えていることを、キャプテンは全て理解していたのだ。

こういうチームは強い。

KK世代と連覇世代、どちらが強いか?

その答えは出ない。

条件が違うので、どちらが強いかなんてことは軽々には言えないからだ。

ただ、これだけは言える。

連覇世代の、PLの伝統である粘りの野球と、選手層が厚くスケールの大きな野球がミックスされ、そこに立浪のキャプテンシーが加わった、全くスキがないまさしく「鉄壁野球」。

連覇世代はやはり、中村監督が作り上げた最高傑作のチームだったと言えよう。

 

◎永遠の学園

80年代の高校野球ファンなら誰もが、PLの校歌を口ずさめるだろう。

おそらく、高校では日本で一番有名な校歌だ。

実はこの校歌、硬式野球部のために作られたものである。

1962年、PLは春のセンバツに選ばれ、甲子園初出場を果たした。

ところが、当時のPLには校歌が無かったのだ。

甲子園で勝利すると校歌を歌う決まりがあるので、これは大変だとばかりに慌てて校歌を作ったというわけだ。

そんな「急造校歌」の割には、長年ファンから愛される名曲となったのである。

 

PL学園校歌 
作詞:湯浅竜起 作曲:東信太郎

燃ゆる希望に いのち生き
高き理想を 胸に抱く
若人のゆめ 羽曳野の
聖丘清く 育みて
PL学園 永久(とこしえ)に
向上の道 進むなり
ああ PL PL
永遠(とわ)の学園 永遠の学園

 

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合計96回、この校歌が甲子園の銀傘にこだました。

しかし100回目まであと4勝として、2009年夏を最後に、この校歌は甲子園に流れていない。

2016年、夏の大阪大会で敗退し、部員がいなくなったPL学園高等学校硬式野球部は休部。

そして2017年3月29日、同部は大阪府高等学校野球連盟を脱退した。

 

学校そのものは存続するが、硬式野球部復活の目途は立っていないという。

つまり「永遠の野球部」ではなかったということか。

もしPL学園硬式野球部が活動を再開しなければ、1987年夏が最後の甲子園優勝ということになる。

そして、PL学園の選手がアミュレットの入った胸に手を当てる仕草も、甲子園のアルプス・スタンドを彩る人文字応援も、何よりも全国の人々を感動させた「PL奇跡の逆転劇」も、もう見ることはできない。

 

【完】

 

①野村 弘  三年
②伊藤敬司  三年
片岡篤史  三年
④尾崎晃久  三年
⑤深瀬 猛  三年
立浪和義  三年 主将
⑦岩崎充宏  三年
⑧蔵本新太郎 三年
⑨長谷川将樹 三年
⑩橋本 清  三年
⑪住野弘亘  三年
⑫中西 聡  三年
⑬桑田 泉  三年
宮本慎也  二年
⑮黒木隆司  二年

 

1978年夏

1981年春

1982年春

1983年夏

1985年夏

1987年春

1987年夏

2017ラグビー・リーグ関西ディビジョンR1@大阪国際大学・枚方キャンパス

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6月18日、大阪府枚方市にある大阪国際大学枚方キャンパスで、ラグビー・リーグJRLナショナル・カップ2017関西ディビジョン第1ラウンドが行われた。

ラグビー・リーグというのは、五郎丸歩らがプレーしている15人制やオリンピック種目になった7人制のラグビー・ユニオンとは異なる球技である。

ラグビー・リーグとラグビー・ユニオンとの違いはここでも何度か書いたことがあるが、もう一度おさらいすると主な違いは以下の通り。

 

①リーグにもユニオンと同じくスクラムはあるが、ユニオンと違って押し合うことはほとんどなく、またラインアウトもない。

②リーグには、ユニオンではお馴染みのモールやラックなどの密集プレーがない。つまりと合わせて、ユニオンにおけるフォワード(FW)のプレーがほとんどない。

③ユニオンと違って攻撃側と守備側に分かれており、タックルが成立するとプレーが止まって新たな攻撃がスタート。6回攻撃して得点を取れなかったら攻撃権が相手側に移るという、アメリカン・フットボール的要素がある。

④得点方法はユニオンと同じだが、トライ4点(ユニオンでは5点)、コンバージョン・ゴール2点(ユニオンも同じ)、ペナルティ・ゴール2点(ユニオンでは3点)、ドロップ・ゴール1点(ユニオンでは3点)などの差異がある。

 

筆者がラグビー・リーグを観戦するのは今回で4回目。

過去の記事は以下をクリックしてご参照いただきたい。

 

2013年7月21日(7人制、於:追手門学院大学)

2015年8月23日(9人制、於:近畿大学)

2016年3月13日(13人制、於:大阪体育大学)

 

日本ではラグビーというとユニオンを指すので、リーグの試合を見る機会はなかなかない。

ましてや、関西となるとなおさらだ。

最近でこそリーグ出身のソニー・ビル・ウィリアムズ(SBW)やクレイグ・ウィングらが日本のユニオンでプレーするようになって、日本のラグビー・ファンにもリーグの存在が浸透しつつあるが、一般人にはラグビーが2種類あるなんてほとんど知られていないだろう。

しかし、過去8回のワールドカップ(RWC)で2度の優勝を誇るユニオンの強豪国・オーストラリア(ワラビーズ)ですら、本国での人気はユニオンよりもリーグの方が上なのだ。

 

さて、今回は関西での公式戦。

関西雷ウェストミックス関西との対戦だ。

9人制で行われ、試合時間は各10分のクォーター制。

リーグはユニオンと違って夏のスポーツとはいえ、デーゲームは選手にとってやはり暑いだろう。

しかし、空梅雨模様の今年も、この日は曇りだったのでコンディション的にはまだ良かった。

13時15分、人工芝にボールが置かれ、いざキック・オフ!(リーグのキック・オフはユニオンと違ってプレース・キック)

 

キック・オフはプレース・キック(ユニオンはドロップ・キック)

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両チームとも日本人と外国人の混成チーム。

そして、ウェストミックスには、日本ラグビー・リーグ協会の会長が御自ら選手として参加していた!

しかも、見事なトライまで決めたのである。

外国人選手はやはりデカいが、小さい日本人選手も果敢にタックルを仕掛ける。

 

今回の試合風景

www.youtube.com

 

そして、いつも思うのが、選手たちはどうやって攻撃回数を数えているんだろう、ということ。

前述したとおり、リーグでは6回の攻撃の間に点を奪わなければ相手に攻撃権を渡してしまうので、何回目の攻撃か把握していなければならない。

アメリカン・フットボールだと、攻撃が止まればハドル(作戦会議)を行ったりするので間があるが、リーグはタックルが成立してもどんどんゲームが流れるのである。

少なくとも観戦している時には、何回目の攻撃かわからなかった。

タックルが成立すると、上の動画にもあるように、リーグ独特のプレイ・ザ・ボールからすぐに試合を再開する。

プレイ・ザ・ボールは、ユニオンにはないプレーだ。

 

プレイ・ザ・ボール

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もちろん、リーグも元々はユニオンから派生したスポーツであり、ラグビーには違いないのだから、ユニオンとの共通点も多い。

トライを取るという目的は同じだし、前へのパス(フォワード・パス)は禁止、ボールを前に落としてもダメ(ノックオン)、ボールより前にいる選手がプレーに参加するとオフサイドの反則になるのもユニオンと同じだ。

 

ボールを持って疾走、相手がタックルに行くのはリーグもユニオンも同じ

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結局、試合はウェストミックスが関西雷に40-34(前半18-20)で勝った。

試合後はユニオンと同じく敵味方なしのノーサイド、両チームで記念撮影した。

 

両チームの選手およびその子供も入って記念撮影

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この後はアフター・マッチ・ファンクション、と言いたいところだが、せっかくの関西でのゲームなのにたった1試合だけではもったいない!ということで、やる気満々の選手たちは公式戦後もエキシビション・マッチを行った。

なんと女性も交えての試合となったのである。

 

エキシビション・マッチでの独走トライが決まる

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日本のラグビー・リーグにも代表チームがあり、日本代表の愛称はサムライズという。

もちろん、他国とのテストマッチも行われるし、海外遠征もある。

リーグの悩みは、日本では競技人口が少ないこと。

ユニオンとの掛け持ちの選手も多いようなので、ユニオン経験者はリーグもプレーし、できればサムライズ入りを目指してもらいたい。

そして、試合後に会長にもお願いしたのだが、ぜひとも大阪でテストマッチを行って欲しいものである。

 

おまけショット:初めて見たゴール・ポストの解体作業。真ん中のバーは取り外せるようになっていたのか

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”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語⑥~どん底からの栄冠編

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東隣り町の高台から見たPL大平和祈念塔と羽曳野丘陵。遠くに見えるのは大阪湾

 

★1987年春(阪神甲子園球場
 第59回選抜高等学校野球大会

●一回戦

P    L 000 300 000=3
西日本短大付 000 001 000=1

 

●二回戦

P L 005 101 010=8
広島商 000 000 000=0

 

●準々決勝

帝京 000 100 001 00=2
PL 100 010 000 01x=3

 

●準決勝

P   L 000 104 000 000 03=8
東海大甲府 203 000 000 000 00=5

 

●決勝

関東一 000 100 000=1
P L 200 000 32x=7

 

◎「ポストKK」の苦悩

1986年、桑田真澄(元:巨人ほか)と清原和博(元:西武ほか)といういわゆる「KKコンビ」が抜けたPL学園(大阪)だったが、春のセンバツに選ばれて6季連続甲子園出場を果たした。

しかし、一回戦の相手は奇しくも2年連続で浜松商(静岡)、前年は11-1と大勝したにもかかわらず、この年は1-8の完敗、初戦敗退でPLの伝統に泥を塗ってしまった。

そして夏の大阪大会では準決勝で泉州(現:近大泉州)に0-1の完封負け、7季ぶりに甲子園出場はならなかったのである。

「KKコンビが抜けてPLは普通のチームになってしまった」

そんな声が聞かれた。

実際にこの年の三年生でプロ入りしたのは霜村英昭(元:ヤクルト)ただ1人、しかもドラフト外入団で一軍出場は無かったという、PLでは珍しいエアポケットの年だったのである。

 

その年の秋、三年生が引退して新チームが結成された。

キャプテンは前年度からレギュラーの名遊撃手・立浪和義(元:中日)。

投手陣は左腕の野村弘(現:弘樹。元:大洋・横浜)、右腕速球派の橋本清(元:巨人ほか)、右腕技巧派の岩崎充宏という3人体制となった。

この年のセンバツではリリーフとして甲子園のマウンドに上がった深瀬猛内野手に専念、四番打者の座に座る。

他に話題性がある選手として、桑田真澄の弟で現在はゴルフのレッスン・プロとして活躍している桑田泉が外野手の控えだった。

KKコンビのような突出した選手はいないが、粒揃いで甲子園制覇も狙えるチームと目されていたのである。

 

ところが秋季大阪大会の準決勝、この試合に勝てば近畿大会出場が決まるという大事な試合で、PLは大商大堺に0-2の完封負けを喫する。

3位決定戦では、東海大仰星に苦戦するも4-1で振り切り、なんとか近畿大会に進出した。

 

近畿大会の初戦を突破して、準々決勝の相手は大阪大会で敗れた大阪2位校の大商大堺

勝てば翌春のセンバツ出場はほぼ確定だが、敗れれば大阪1位校の市岡も準々決勝に進出しているだけに、3位校であるPLのセンバツは絶望的だ。

大商大堺はPLに勝った自信からか、序盤から溌溂としたプレーを見せ、野村と橋本を打ち込んで5回表を終わった時点で5-1と一方的リード。

勢いから言って、大商大堺のコールド勝ちも充分に有り得た。

昨年夏までは無敵を誇ったPLが、まさかのコールド負け……。

立浪や橋本は大商大堺に進学するはずだったが、やはりKKコンビに憧れてPLへ。

センバツはもう無理か……。もし俺が大商大堺に進学しとったら甲子園へ行けたかも……」

と、立浪が諦めかけてベンチに帰ってきた5回裏の攻撃前、中村順司監督のカミナリが落ちた。

「お前ら、今日が何の日か忘れたんか?今日は南の月命日やぞ。こんな試合しとって、南に申し訳ないと思わんのか!」

南とは、立浪らと同学年だった南雄介のことである。

南は、新チームではクリーンアップ間違いなしと言われていたほどの選手だったが、この年の夏に不幸にも水難事故に遭ってしまい、若い命を落としたのだった。

南のことを思い出したPLナインは発奮、大阪大会で完封を喫した大商大堺のエース前田克也を捉えて5回に2点、6回に3点を奪って一気に逆転、その後もさらに加点して8-5で雪辱を果たしたのである。

準決勝でPLは明石(兵庫)に2-4で敗れたものの、翌春のセンバツ出場を果たした。

 

勝負の世界でタラレバは禁句だが、もし近畿大会で大商大堺に敗れていればセンバツ出場はなく、この年度のPLは伝説のチームとはならなかっただろう。

あるいは、この時のPLと大商大堺は1勝1敗で、もし勝ち負けの順序が逆だったら大商大堺近畿大会準決勝に進出し、センバツ出場を果たしていたことになる。

あるいは、PLが負けたのが夏の大阪大会だったら、その時点で甲子園出場は夢と消えていた。

逆に大商大堺は全てのタイミングが悪く、甲子園出場を逃してしまった。

ちなみに大商大堺はその後も、何度も秋季近畿大会や夏の大阪大会決勝に進出するもあと一歩でいつも敗れ、2017年春の段階で未だに甲子園出場はなく、「全国一の悲運校」と呼ばれている。

 

◎「逆転のPL」復活

センバツでの優勝候補は、PLから主役の座を奪い返した前年度優勝校の池田(徳島)。

PLも一応は有力校の一つに挙げられていたが、大阪3位、近畿大会準決勝敗退では、さほど前評判は高くなかった。

 

初戦の相手は、大会№1サウスポーの呼び声高い石貫宏臣(元:広島ほか)を擁する西日本短大付(福岡)。

一方、PLの左腕・野村は腰を痛めていて、苦戦が予想されていた。

だが、朝8時の試合が奏功したのか、石貫の体がまだ眠っている4回表にPLが速攻を仕掛け一挙3点を先取。

野村は4回裏に連続四球を与えた場面で早々とマウンドを降り、橋本にスイッチ。

橋本は6回裏に1点を失うも6イニングで8奪三振の好投を見せ、PLが3-1で初戦を突破した。

試合後、立浪は「今日の勝利は(昨年、初戦敗退した)先輩たちに捧げる1勝」と語った。

 

二回戦の相手は名門の広島商(広島)。

3回表、PLは集中打を浴びせて一挙5点、その後も着々と加点した。

すっかり楽になった先発の野村は、7回無失点の好投でマウンドを降りた。

8回から登板した岩崎は、無失点に抑えるものの2イニングで4安打を浴び、やや不安を残す。

結局、PLは8-0で広島商を一蹴、ベスト8へ駒を進めた。

試合後の立浪は「今日の勝利は僕たちの1勝」と胸を張った。

 

準々決勝は強敵・帝京(東京)との対戦。

1回裏、PLは二番の尾崎晃久が帝京のエース芝草宇宙(元:日本ハムほか)からソロ・ホームランを放ち1点先制。

しかし帝京も4回表、PL先発の野村を攻めて1点を返し同点に追い付く。

だがPLは5回裏に一番・蔵本新太郎の左前打で1点を加え、2-1と勝ち越した。

PLは7回途中から橋本にスイッチ、逃げ切りを図る。

9回表、粘る帝京は大井剛が中前適時打を放ち、同点に追い付いた。

延長戦に入り10回表、帝京は四球を選び無死一塁。

ここでPLベンチが動く。

ピッチャーを橋本に代えて、前の試合では不安定だった岩崎をリリーフに送った。

もう後ろのピッチャーがいなくなったPL。

帝京は送りバントをせずに強攻策、これが当たってセンター前ヒット、無死一、三塁と絶好のチャンス。

三番手投手の岩崎、ここは落ち着いて次打者を三振に打ち取る。

一死一、三塁、途中出場の池野繁の打席で帝京はスクイズを敢行。

しかし、岩崎はキレの鋭いカーブで空振りに仕留め、飛び出した三塁走者は憤死、PLは絶体絶命の大ピンチをしのいだ。

延長11回裏、PLは二死一、三塁のチャンスで打席は六番の長谷川将樹

芝草の速球を捉えた長谷川の打球はライト前へ。

PLのお家芸・サヨナラ勝ちで準決勝に進出した。

勝利を呼び込んだのは「第三の投手」岩崎の好投であり、「勝負弱い」と言われていた長谷川の一打という、いずれも脇役の選手だったのである。

それは、KK時代とは違うこの年のPLを象徴していた。

 

準決勝の相手は、センバツ初出場ながら夏は甲子園ベスト4の実績を持つ東海大甲府(山梨)。

エースの山本信幸は二回戦、準々決勝と2試合連続完封で調子を上げていた。

打線も一番打者の久慈照嘉(元:阪神ほか)を中心に得点力があり、下馬評では好勝負の予想。

東海大甲府は初回、PL先発・野村の立ち上がりを攻めていきなり2点先制した。

3回裏にも野村を攻め立てて早くもKO、さらにリリーフの橋本も捉えて3点を奪い、試合を有利に進める。

しかもPLは、帝京戦で芝草からホームランを放ったセカンドの尾崎がイレギュラー・バウンドを顔面に受けて負傷退場、代わって準々決勝までレフトで先発出場していた西本篤史セカンドに入るという非常事態。

一方、攻撃陣は3回まで山本にパーフェクトで抑えられ、しかも0-5と一方的リードを許したPLだったが、選手たちが慌てることはなかった。

「昨秋の近畿大会でも、大商大堺に1-5から逆転勝ちしたんや。今日だって負けるわけはない」

そう信じたPLナインは4回表に1点を返し、さらに6回表にはまさしく神風が吹いた。

尾崎に代わって二番に入った西本の当たりは平凡なレフト・フライ、と思いきや強風のためレフトが目測を誤り2ベース。

さらに四番・深瀬のレフトへの高いフライも、またもやレフトが強風で捕れずに二塁打となった。

そして野村に代わって五番に入った橋本が左前打、六番の長谷川がレフト・オーバーの2ベース、仕上げは七番の片岡篤史(元:日本ハムほか)のレフト線への二塁打と、この回だけでレフトへの二塁打を4本集中させて同点に追い付いた。

だが、ここから山本が踏ん張り試合は膠着状態に入る。

9回を終えて5-5の同点、試合は延長戦に突入した。

PLは橋本から岩崎にスイッチ、もう後ろにリリーフはいない。

一方の東海大甲府は山本がマウンドを守り続ける。

岩崎は二回戦の広島商戦での不安定な投球がウソのように、東海大甲府打線を完璧に抑えた。

そして延長14回表、PLは二死満塁のチャンスを掴み、打者は準々決勝のヒーロー長谷川。

「四球の後の初球」を叩いた長谷川の打球はレフト頭上を遥かに越える、走者一掃の2ベースとなった。

「勝負弱い男」長谷川の、2試合続けての殊勲打により東海大甲府を8-5で振り切り、PLは決勝進出。

まさしく「逆転のPL」の真骨頂だが、甲子園で5点ビハインドをひっくり返したのは、後にも先にもこの試合だけである。

 

◎あっと驚く奇襲戦法で二都決戦を制し、三たび春の頂点へ

決勝に進出してきたのは、準決勝でディフェンディング・チャンピオンの池田を破った関東一(東京)。

東京vs大阪といういわゆる二都決戦で、甲子園は5万5千人の超満員札止めになった。

PLにとって、甲子園の決勝で東京勢と当たるのはこれで4度目。

これまでの戦績は1勝2敗、大阪の意地でなんとしてもタイに持ち込みたいところだ。

関東一はアンダースローのエース平子浩之と、強打の四番・三輪隆(元:オリックス)のバッテリーを中心とした好チーム。

特に池田を破ったことにより勢いに乗っていた。

 

PLの先発は野村、そして捕手は打撃不振の伊藤敬司に代わって松下仁彦が甲子園初の先発マスクを被る。

セカンドには、準決勝で顔面に打球を受けて口内出血、お粥しか食べられなくなった尾崎が二番打者として戻ってきた。

PLは初回、二死一塁で打者は当たりの出ていない四番・深瀬。

ここでまたPLに神風が吹く。

深瀬の打球はピッチャーとキャッチャーの間に上がるポップ・フライ。

しかし、平子と三輪がお見合いしてしまい、ファウルとなった。

生き返った深瀬の鋭い打球は左中間を破り、二塁打となって1点先制。

さらに続く五番の野村も左中間へ2ベース、PLは幸先よく2点を先制した。

 

4回表に関東一も1点を返し、2-1と1点差に詰め寄られたPLの、7回裏の攻撃。

無死一、三塁という絶好のチャンスを迎え、打席に立つのはこれまで先制打を含む二塁打2本、完全に調子を取り戻したプロ注目の四番・深瀬。

カウント1-1から一塁走者の立浪が盗塁、深瀬は援護の空振りをして、無死二、三塁とチャンスは広がったもののカウント1-2と追い込まれた。

この時、中村監督はピンと来たという。

「コイツ、サインを待ってるな」

と。

平子が投げた瞬間、深瀬のバットが下がった。

全く無警戒だった関東一バッテリーの虚を突いて、四番打者がまさかのスリーバント・スクイズ

これが見事に決まって、PLは待望の3点目をむしり取った。

さらに、野村の代わりに五番に入った橋本もスクイズ、4点目を奪う。

強打PLが、まさかの四番と五番(は代役だが)の連続スクイズだ。

この回、PLは長谷川、片岡の連続二塁打で1点を追加、5-1として関東一を突き放した。

 

そして8回裏には、またもや深瀬がこの試合3安打、4打点目となる右前打を放ち2点を加え、PLの勝利は盤石のものとなる。

守っては6回から登板した橋本が剛速球を武器に強打の関東一打線をねじ伏せ、7-1で関東一を破り、3度目のセンバツ制覇を果たした。

 

この大会でのPLは、KK時代とは明らかに異なる戦いぶりだった。

桑田1人に頼っていた投手陣が、この大会では3投手による継投で、史上初の「完投投手なしによる優勝」となった。

しかも柱になる投手がいなかったわけではなく、先発は左腕の野村、中継ぎに剛球の橋本、抑えは変化球の岩崎という、異なるタイプのエース級ピッチャーを次々に継ぎ込む、これまでの高校野球には見られなかった戦法。

まるでプロのように、投手分業制を敷いて優勝した初めての高校だった。

 

そして打線でも、「清原二世」と呼ばれた深瀬ですらスリーバント・スクイズをさせるなど、全員で1点をもぎ取る執拗な攻撃。

清原が中心だった頃と違い、ホームランは尾崎の1本だけ。

それでも長打力が無かったわけではなく、ここぞというところで集中打をたたみ掛け、誰かが不振でも誰かが穴を埋めるという全員野球。

二回戦の広島商戦以外は苦戦の連続だったが、驚異の粘りで「逆転のPL」の復活を印象付ける大会でもあった。

 

大阪3位、近畿大会準決勝敗退という「弱いPL」が春の頂点に立つことにより、自信を付けた選手たちは、恐るべき強力チームとなって夏を迎えるのである。

 

【つづく】

 

①野村 弘  三年
②伊藤敬司  三年
片岡篤史  三年
④尾崎晃久  三年
⑤深瀬 猛  三年
立浪和義  三年 主将
⑦岩崎充宏  三年
⑧蔵本新太郎 三年
⑨長谷川将樹 三年
⑩橋本 清  三年
⑪松下仁彦  三年
⑫桑田 泉  三年
⑬西本篤史  三年
⑭成松紀彦  三年
⑮吉本 守  三年

 

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