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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

名古屋~埼玉の最短ルート

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のっけからヘンな質問で恐縮だが、みなさんは名古屋から埼玉(さいたま市内)へ急いで行く時は、どんな方法を使うだろうか。

飛行機を利用するという手もあるが、名古屋市内からセントレア空港まではかなり遠いし、羽田あるいは成田空港から埼玉まで行くにも時間がかかる。

普通の人なら、名古屋駅から東海道新幹線に乗って東京駅まで行き、そこから東北・上越北陸新幹線に乗り換えて大宮駅まで行くだろう。

ケチな人は金銭感覚に優れた人は東京駅から大宮駅まで在来線を利用するかも知れないが、いずれにしても鉄道利用となる。

時間がかかっても構わないという人は夜行バスの利用となるが、どちらにしても随分遠い距離だ。

なにしろ愛知県を越えると、静岡県~神奈川県~東京都と、3つの都県をまたいでいるのだ。

 

ところが、もっといいルートを見つけた。

それが「長野またぎルート」である。

 

中部地方の地図をよく見てみると、長野県は愛知県とも、そして埼玉県とも接している。

つまり、愛知県と埼玉県は、僅か一県をまたいでいるだけなのだ。

要するに、東京都をまたいでいるだけの神奈川県と千葉県のような関係である。

いや、埼玉県にとっても、一県(一都)をまたいでいるだけという点では、愛知県も神奈川県も同じような存在と言える。

 

関西で生まれ育った人間にとっては、愛知県と埼玉県が一県をまたいでいるだけという近しい関係とは夢にも思わなかった。

というよりも、埼玉県と長野県が隣県同士だったことが驚きである。

では、実際に愛知県から埼玉県までの、一県またぎ(長野またぎ)ルートと新幹線ルートを見てみよう。

 

赤い実線が一県またぎ(長野またぎ)ルート、黒い点線が新幹線ルート

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おお、距離的にも長野またぎの方がやや短いように見える!

そこで、実際にはどんなルートになるか調べてみた。

すると……、愛知県から長野県に直通する鉄道路線なんてない!

愛知県から長野県へ行く路線としてJRの飯田線があるが、この線は静岡県内を通るので「一県またぎ」に反してしまう。

当然、JRの中央本線岐阜県内を通ってしまうのでダメだ。

 

まあいい、ここまでは想定内だ。

列車が使えないので当然、車での移動となる。

それでは、名古屋市からさいたま市まで、一県またぎのスタートだ。

 

名古屋市から長野県へ行くには、中央自動車道に乗るのが一番手っ取り早い。

ところが、中央自動車道中央本線と同じく岐阜県を通ってしまうのだ。

これもやはり「一県またぎ」に反する。

やむなく、東名高速に乗るとしよう。

 

……しかし、長野県内に入ろうと思えば、豊田あたりで降りなければならない。

高速道路走行区間、みじか!

東名高速を降り、国道153号を走って目指すは長野県境。

そして、県境の山もなんのその、遂に長野県に入った!

 

さらに国道153号を北東へ進んで辿り着いたのは飯田市

見えて来たのは、待っていたぞ中央自動車道

これで、心置きなくユーミンのカセットテープをデッキに挿入できる(いつの時代や)。

中央エキスプレスウェイを快適ドライブ、一気に諏訪湖まで北上だ!

中央自動車道は英語でCHUO EXPRESSWAYと言い、CHUO FREEWAYではない。日本にはフリーウェイと呼べる自動車道はなく、高速道路はエキスプレスウェイと呼ばれる。だからユーミンには正しく「中央エキスプレスウェェイ♪」と歌ってもらいたい》

 

……ところが、このまま中央自動車道を走り続けると山梨県まで行ってしまうので、ここで降りなければならない。

ふう、また一般道か。

今度は国道299号で標高2127mの麦草峠越え(ゲェ!)。

 

無事に麦草峠を越えて、このまま国道299号を走っていれば埼玉県に到達するのだが、その前に群馬県を通ってしまうので、国道299号からは離れなければならない。

国道141号やその他の道路を走り、ようやく埼玉県との県境の村、長野県川上村に辿り着いた。

ここからが最後の難関である。

 

なにしろ、長野県と埼玉県を結ぶ道路は1本しかない

標高1740mの三国峠越えが唯一のルートだ。

まずは長野県側から、川上村道192号梓山線(旧:梓山林道)に入る。

では、その動画を見てもらいたい。

この動画ではバイク走行、やや早回ししているようだ。

 

三国峠越え:長野側上り

www.youtube.com

 

無事に県境の三国峠に到着。

イヤハヤ、絶景かな。

新幹線では、こんな景色は望めないだろう。

遂に埼玉県に入った。

 

しかし、行きはよいよい(あまり良くなかったが)帰りは怖い。

埼玉県側の秩父市道大滝幹線17号(旧:中津川林道)は舗装されていないのだ。

ずっとダートの悪路が続く。

しかも野生のシカが生息しているという。

そして、17:00~翌朝8:00は通行止めなので、日の入りまでに走破しなければならない。

 

三国峠越え:埼玉側下り

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さらに、三国峠越えを果たしたところで、さいたま市内まではまだまだ遠い。

一応は秩父市内だが、中津川は秩父市街地からは遠く離れているのだ。

無事に秩父市街地まで辿り着けても、なにしろ秩父である。

ラッシャー木村国際軍団が打倒アントニオ猪木のために死に物狂いでトレーニングした場所である。

ここから大宮まで、どれぐらいかかるだろう。

まあでも、名古屋市さいたま市を、長野一県またぎルートで到達した!(ことにしよう)

バンザーイ\(^o^)/

 

誰か、この「名古屋~埼玉・長野一県またぎルート」を試してみる人はいないだろうか。

もしいれば、どれぐらい時間がかかったか、教えていただきたい。

ちなみに、名古屋~大宮間を新幹線利用すれば、ある時間帯なら乗り換え時間を含めて2時間16分だ。

きっと、それよりも早く到達するだろう。

なにしろ、新幹線の三県またぎ(一都含む)に対して、こちらは一県またぎなのだから。

 

あ、岐阜県~埼玉県だと、もっと条件がいいかも知れない。

こちらも長野県の一県またぎになるが、新幹線利用だと愛知県も挟まるので4県またぎ(一都含む)になる。

しかも、岐阜羽島駅は「のぞみ」が停まらないのだから、もっと時間がかかる。

調べてみると、岐阜羽島~大宮間は乗り換え時間を含めて2時間17分だ(あれ、名古屋発と比べて1分しか変わらない)。

これは是非とも試してみる価値はある。

僕はイヤだけど。

 

なお、三国峠の埼玉側は、冬季(12月1日~翌年4月30日)は通行止めなので、夏に行くことをお勧めする。

道が通れば風景が変わる・国道480号(父鬼バイパス~鍋谷峠道路)

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2017年4月1日、国道480号大阪府和泉市和歌山県かつらぎ町間が開通した。

いや、正確には以前からこの間の国道480号は通じていたので、今回開通したのはバイパス(父鬼バイパス~鍋谷峠道路)だ。

 

大阪府和泉市和歌山県かつらぎ町との間には和泉山脈が横たわっているため、県境を跨ぐには山越えとなる。

しかし、以前のこの間の国道480号にはトンネルが無かったので、とんでもない山道であり、しかも細くて車同士が対向するのも難しく、さらに大きく曲がりくねっていたのである。

そのため、いわゆる国道ならぬ酷道(こくどう)」と呼ばれていた。

 

国道480号の県境部分(鍋谷峠)の旧道

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大阪府から和歌山県へ抜けるには、大阪湾近くの西側は阪和自動車道をはじめ、一般道も何本か通っているので便利だ(実は同日、国道26号のバイパスも全線開通した)。

ところが、東側となるとまともな道路は国道371号しか通ってないため、慢性的な渋滞となっている。

ましてや、その中間には国道480号しかなく、いかんせん「酷道」ではとても流通道路とは呼べない。

しかし、今回のバイパス開通で和泉市役所~かつらぎ町役場間が71分から53分に短縮すると試算されており、渋滞緩和が大いに期待できる。

特に、国道480号はどちらかというと東寄りなので、国道371号の利用者が新バイパスに流れてくるのではないか。

 

2017年4月1日、国道480号の新バイパス(父鬼バイパス~鍋谷峠道路)開通

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ところで、国道480号も和泉山脈の「酷道」部分以外では、2車線(片側1車線)という普通の流通道路として以前から機能しており、筆者も何度か通ったことがある。

しかし、大阪側の国道480号を運転していると、奇妙な感覚に捉われたものだ。

 

和泉市大野町から和歌山方面、即ち南へ走っていると、右斜め前に未開通の道路が建設されている箇所がある。

方角で言えば西の方向、やや南で大阪湾の方へ道が開通するのか、と思っていた。

 

国道480号の旧道(緑の実線)を走っていると、A地点に差し掛かった部分で、南西の方向に未開通の新道(赤の点線)が建設されていた

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ところが、さらに真っすぐ走っていると、今度は右側(西)と左側(東)にも、未開通の新道が建設されているではないか。

さっきは西側に抜ける道路が建設されていたのに、その先にも東西へ抜ける新道が造られている……。

つまり、さほど遠くない距離に、大阪湾へ抜ける東西の道が2本も通るということか?

かなりの田舎なのに、実に無駄なことではないか。

ちなみに、左側(東)の方にはトンネルが見えていた。

 

A地点を過ぎたB地点には、右側(西)と左側(東)に未開通の新道(赤の点線)が見える。左側(東)の先には未開通のトンネルもあった

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国道480号のバイパスが開通し、走る機会があった。

しかし新バイパスには、建設中だった「東西2本の新道」が全く見当たらなかったのである。

何かキツネにつままれた気分だった。

 

結論から言えば、この「東西2本の新道」こそが、開通した国道480号のバイパスだったのである。

実は、2本の新道は1本だったわけで、東西ではなく南北に真っすぐ伸びていたのだ。

旧道を真っすぐ走っていたつもりが、実は旧道の方が蛇行していたため、新道と交差する部分では東西と南北が逆転していたのである。

だからB地点で見た、東側と思っていたトンネルは、本当は南側にあった。

(上記バイパス動画の最初の方で、A地点とB地点を通っている)

 

これが開通した本当の図。A地点から旧道(緑の実線)が蛇行し、B地点で新道(赤の実線)と交差する時には、旧道を南に走っていたつもりが実は西に走っていた

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揚子江は、場所によっては北に流れている。別の場所では南に流れている。西に流れている場所だってある。しかし全体としては、揚子江は東に流れているのだ」

という言葉が中国にはある。

つまり、他人を見る時でも、一部分だけ見て判断するのではなく、その人全体を見よ、という戒めだ。

 

しかし、今回はそれとは全く逆のことを味わった。

旧道を走っている時、全体としては南に走っているのはわかっていたのだが、ある場所(A地点)では東に、別の場所(B地点)では西に走っていることがわからなかったのである。

道が蛇行していると、ハンドルを握っていてもどの方角に走っているのか、わからなくなるのだろう。

というか、蛇行していても真っすぐ走っている、と錯覚してしまう。

 

それにしても、新しいバイパスが開通すると、同じ場所を走っていても風景が一変する。

それまでは幹線道路として走っていた旧道が、新バイパスが開通した途端にどこを通っている道路かわからなくなるのだ。

いつものことだが、今回もそれを痛感した。

 

なお、4月22日現在では、Yahoo!地図には国道480号の新バイパス(父鬼バイパス~鍋谷峠道路)はまだ描かれていない。

 

数年前の地図に、今回開通した新バイパスの上図部分を描いてみたもの(南北を逆さにしたため、元地図の文字は逆)

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【トップ写真は、国道480号のバイパスが開通した翌4月2日にグランド・オープンした、和歌山県かつらぎ町の「道の駅くしがきの里」】

タイブレーク論

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今年(2017年)のセンバツ高校野球は、大阪桐蔭の2度目の優勝で幕を閉じた。

勝戦で対決したのは同じ大阪の履正社と、史上初の大阪決戦として注目を集めたのは記憶に新しいところ。

 

そしてもう一つ注目を集めたのが、二回戦の福岡大大濠×滋賀学園、続く健大高崎×福井工大福井が史上初めて2試合続けての延長15回引き分け再試合となったことである。

いや、2試合続けての再試合のみならず、1つの大会で引き分け再試合が2試合あったことも史上初めてだ。

 

ここで心配されたのが、投手の疲労である。

翌日は4校にとって休養日となったものの、再試合で勝ったチームは決勝まで最大4連戦となるからだ。

ヘタをすればエース投手が4連投すると危惧されたのである。

 

こういう時、必ず出て来るのがタイブレーク論である。

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも採用されているルールで、2017年のWBCでも侍ジャパンがオランダ相手に延長11回のタイブレークの末に勝ったことで、一気に認知度が高まった。

 

一口にタイブレークと言っても方法は色々あるが、今回のWBCルールで説明すると、延長11回からは無死一、二塁の状態からその回の攻撃を始めるというものだ。

つまり、点を入りやすい状態にして、早く試合の決着を着けようという制度である。

あらかじめ人為的にチャンスを作ることによって、偶然性を高めようというわけだ。

 

タイブレークがシニア・レベルで最初に行われたのは実は日本で、社会人野球で採用された。

それまでの社会人野球は金属バットの使用が認められていたので、派手な打ち合いになることが多く、延長戦が長引くことはほとんどなかった。

ところが、国際大会で金属バットが禁止になると、社会人野球でも木製バットのみとなった。

そうなると、金属バット時代の派手な打ち合いは鳴りを潜め、一転して投手戦のオンパレードとなったのである。

つまり、点が入りにくくなり、延長戦が長引くなることが増えたのだ。

 

ここで困ったのが応援団。

社会人野球と言えば、会社員を動員しての派手な応援合戦が名物だが、延長戦で試合が長引くと、社員たちは翌日の仕事に差し支える。

ましてや、地方の出場チームはどうなる?

試合が終わらなければ、応援団は宿泊や帰省の予定が立てられない。

そこで、早く試合が決着する方法として、タイブレークが採用されたのである。

要するにタイブレークとは、野球の本質とは関係なしに、応援団(というより会社)の都合によって採用されたルールなのだ。

 

もっと言えば、社会人野球で採用される遥か前から、タイブレーク制度はあった。

中学野球である。

1979年に始まった全日本中学校軟式野球大会(全中)では、既にタイブレークは行われていたのだ。

それだけではない。

筆者の父親が参加していた町内の草野球大会でも、タイブレークが採用されていたのである。

要するにタイブレークとは、社会人野球では応援団(会社)の都合、あるいはジュニア・レベルや草野球レベルで考え出されたルールなのだ。

WBCやオリンピックでも採用されたが、これはテレビ放映権の都合である。

つまり、野球の本質とは関係ないのがタイブレークと言えよう。

 

そもそも野球とは、サッカーのような時間制のスポーツと違って、延長戦で決着の着けやすいゲームである。

しかもサッカーはロースコア・ゲームになることが多いため、延長戦がいつまでも続くことが懸念されるので、ノックアウト式トーナメントではPK戦で決着を着けざるを得ないのだろうが(それでもPK戦反対論者は多いようだ)、野球は延長戦で1イニングずつ区切ることができ、しかも点が入りにくいスポーツでもないので、無理やりチャンスを人為的に作って下駄を履かせるタイブレークを採用する必要など全くない。

 

「野球は時間制限がなく、試合時間が3時間以上にも及ぶので、世界的に野球を普及させるためにもタイブレークは必要だ」

という意見もある。

だが、オリンピックでタイブレークを採用した野球競技はどうなったか。

結局は、アッサリと野球はオリンピックの正式種目から外された。

要するに、タイブレークを採用しても、何の効果もなかったのだ。

2020年の東京オリンピックで野球は再び正式種目となったが、これは野球が盛んな日本開催だからというだけで、その次のオリンピックではまた正式種目から外されるだろう。

タイブレークなんていう小手先を使っても、野球を認知しないオリンピック発祥地・ヨーロッパで人気が出るわけがない。

 

時間短縮をしたいのなら、公認野球規則に明記されている12秒ルールを徹底させるとか(無走者の場合、投手は12秒以内に投球しなければならないが、全く守られていない)、打者が無駄に打席を外すことを認めないとか、1試合にかけるタイムの数を制限するとか、遅延行為の元凶であるサイン盗みは厳罰に処するなど、やることはいくらでもあるのだが、その努力もしないでタイブレーク採用などオハナシにならない。

そして、野球を世界に普及させるはずのWBCでは、試合時間をますます伸ばすことになる球数制限(これはメジャー・リーグ球団および代理人の都合)を採用するなど、やっていることがハチャメチャだ。

しかも、ビデオ判定の導入により、試合時間はますます延びた。

そしてメジャー・リーグでは、時間短縮を目標に掲げながら、その効果がほとんど期待できない敬遠申告制を採用した。

敬遠申告制がいかに愚かな制度か、こちらを参照されたい。

 

さて、少し話が逸れたが、高校野球におけるタイブレーク制である。

実は現在でも、高校野球ではタイブレーク制は採用されている。

それは春季大会や明治神宮大会など、甲子園には直結しない大会だ。

また、軟式野球でもタイブレークが用いられた。

ただし2017年現在、春夏の甲子園はもちろん、甲子園大会に直結する夏の地方大会や秋季大会では採用されていない。

 

では、本当にタイブレークで投手の酷使を防げるのだろうか。

結論を先に言えば、そんなことは絶対に有り得ない。

タイブレークを採用すれば、監督ならエースをなるべく降板させないように続投を強いるだろう。

何しろ大ピンチからの投球となるのだから、エース以外の投手では荷が重すぎる。

タイブレーク制により、却ってエースの連投となるだろう。

それに、タイブレークで一旦点が入ると、雪崩現象のように攻撃が続く可能性が非常に高い。
特に、精神的にまだ未熟な高校生だとその傾向は顕著だろう。

そうなると、投手は却って球数を投げるようなハメになる。

ハッキリ言って、タイブレークが投手の酷使をなくすというのは幻想に過ぎない。

 

それに、タイブレークは先攻と後攻で著しく不平等になる。

先攻は一気に大量点を取ればほぼ勝ちを手中にするが、点を取れなければ後攻はセコく1点を取りに来るだろう。

もちろん、普通の野球だって先攻と後攻は全く平等とはならないが、タイブレークだとそれとは比べ物にならないほど、運が大きく関わってくるのだ。

せっかく延長戦をやりやすいスポーツなのに、タイブレーク方式など全くのナンセンスである。

つまり、野球というスポーツの本質を歪めてしまうのだ。

しかも、野球とは打者が出塁して、本塁に還って来て初めて点となるのが大原則である。

タイブレークとは、野球の原則すら無視するルールなのだ。

タイブレーク推進者は、そのことを理解しているのだろうか?

 

「では、投手の酷使問題はこのままでいいのか」という人もいるだろう。

もちろん、このままでいいわけがない。

すると、1試合の球数を制限するべきだ、という意見が必ず聞かれる。

だが、球数制限なんてルールを設けたら、打者はファウルで徹底的に粘って、相手投手を降ろしてしまう作戦に出るのがオチだ。

つまり「積極的に打つ」という、野球の本質が失せてしまう。

 

さらに、無名校は大会に参加できなくなるだろう。
そうなると、ただでさえ少子化なのに野球の底辺は狭まるばかりである。

高校野球の素晴らしさは、甲子園や全国優勝を狙う選手も、素質や環境には恵まれない選手でも同じ土俵で、同じ目標に向かって挑戦できることだ。

これこそが他国にはない、日本の野球文化である。

高校野球の底辺の広さが、日本の高い野球レベルを支えているのだ。

1984年のロサンゼルス・オリンピックから2008年の北京オリンピックまで、さらに2006年から始まったWBCの、全ての大会(計11回)でベスト4に入っている国は日本だけである。

体格やパワーで劣る日本がこれだけ安定した成績を収めているのは、ある意味驚異だ。

 

投手の酷使を防ぐために最も必要なのは、タイブレークや球数制限などの小手先のルール変更ではなく、指導者の意識改革である。

投手の酷使が問題視されるたびに、日本高等学校野球連盟高野連)が必ず槍玉に上がるが、筆者にはこれが理解できない。

高野連は「投手を連投させよ」などとは一言も言っていないのだ。

むしろ、複数投手制を奨励しているぐらいである。

戦時中に行われた、選手の交代を認めない文部省主催の中等野球とは違うのだ(注:後述)。

しかし、無知な連中は「高野連による残酷ショー」などと騒ぎ立てる。

 

2017年のセンバツ二回戦で、延長15回を投げ切った福岡大大濠のエース三浦銀二投手は、中1日の再試合でも9回完投。

ところが、翌日の準々決勝では三浦投手は登板を回避したのである。

その理由として、福岡大大濠の八木啓伸監督は、

「三浦は投げたがっていたし、トレーナーからも大丈夫という報告は受けていた。だが、優勝するためにも三浦を温存すべきと思った。再試合相手の滋賀学園さんが継投策を採ったので、投手層の厚さも勉強になった」

と語った。

結果、福岡大大濠は準々決勝で報徳学園に敗れてしまったが、八木監督の勇気は称えるべきだろう。

惜しむらくは、再試合の時に気付くべきだったが、気付かないよりはマシだ。

福岡大大濠は、前年の秋季大会から三浦が1人で投げ抜いてきたが、それだけに甲子園でエース以外の投手を先発させるのは勇気がいることだったに違いない。

言い換えれば、エースの三浦1人に頼っていて、他の投手に公式戦を経験させていなかったのは八木監督の失態だったが、今回の件で勉強になっただろう。

さらに、高校野球には後援会やOB会といった厄介な連中もいる。

彼らはチームが負けると好き勝手なことを無責任に騒ぎ立てるが、そんな連中の意見に左右されない確固たる信念が高校野球の指導者には必要だ。

 

三浦は高野連によるメディカル・チェックも受けている。

そこで「問題ない」という医師の診断結果も得た。

それでも、八木監督は準々決勝では三浦を投げさせなかった。

試合の途中、三浦はブルペンに行ったが、八木監督は「その必要はない」とやめさせた。

「高校生は『投げられるか?』と訊くと、必ず『投げられます』と答える。でも、そこで本当に投げられるかどうか、見極めるのが監督の務め」

まさしくその通りである。

 

タイブレークや球数制限でルール化しても、指導者の意識が変わらなければ、むしろ悪化するだけだろう。

それどころか「100球投げただけで潰れてしまう投手」を量産してしまうのがオチだ。

日本の高校野球がアメリカで紹介されると、アメリカ人は必ずこう言う。

「高校生にこれだけ投げさせるなんてクレイジーだ。アメリカでは高校生に投球制限を必ず設ける」

そして、日本にいる「アメリカ野球の事情通」とやらも、アメリカ野球を見習え、と声高に叫ぶのだ。

 

だが、彼らは知っているのだろうか。

投球制限で守られているはずのアメリカの投手が、どれだけ多くトミー・ジョン手術を受けているのか、ということを。

2010年~14年の5年間で見ると、メジャー・リーグ(MLB)の投手が実に110人(内、日本人投手が5人)、日本プロ野球(NPB)の投手は21人(内、韓国人投手が1人)である。

MLBの日本人投手以外が全てアメリカ人投手というわけではないが、日本人投手以外のMLBと、NPBおよびMLBの日本人投手がトミー・ジョン手術を受けた人数は、105人:25人。

実に4倍以上ものMLB投手(日本人を除く)が、日本人投手よりも肩や肘に故障を抱えているのだ。

おそらく、アメリカ野球信望者たちは、こんな事実も知らないのだろう。

 

そして「日本の高校野球はケシカラン!アメリカの投手は球数制限で守られているので故障しない」などと何の根拠もなくデッチ上げる。

さらには「高校野球にもタイブレークや球数制限を!」と主張するばかりか、人によっては「高校野球(甲子園大会)そのものをやめてしまえ!」などと言う極論が飛び出すのだ。

そうなれば、日本の野球文化が崩壊することは目に見えているのに。

投げ過ぎは良くないが、故障しないためにいちばん大切なことは、故障しない投球フォームを身に付けることだ。

ところが、生半可通のド素人は、この根本的なことがわかっていない。

「肩や肘を守るため」ろくすっぽ投球練習もせず、間違えたフォームのまま投げているので、大した投球数も投げていないため肩や肘を故障してしまうのである。

 

NPBでもかつて「鉄腕」稲尾和久や「権藤、権藤、雨、権藤」の権藤博など、投げ過ぎによって短命に終わった投手がいた。

だがその後、NPBでも投手の酷使は良くないと先発ローテーションが確立し、先発・中継ぎ・抑えという投手分業制が当たり前になったのである。

しかし、この戦術変更は、ルール変更によってもたらされたのではない。

NPBのルールは、当時から変わっていないのである。

つまり、各球団が「投手を分業制にした方が得策」と判断したのだ。

高校野球でも、ルール変更ではなく、指導者の意識改革による複数投手制が何よりも重要だ。

その方が、投手育成にどれだけ有効かわからない。

実際に、再試合を経験した4校のうち、福岡大大濠を除く3校は中1日あったにもかかわらず、エースを完投(あるいは登板)させなかった。

昔に比べると、複数投手制は浸透してきているのだ。

 

高野連がルールとして介入すべきといえば、メディカル・チェックだろう。

前述したように現在でも行っているが、診断結果を報告するだけで、あとは各校の判断に任されている。

これを、医師の判断で「出場してはダメ」と言えば、選手が出場したいと言おうが、監督が出場させたいと言おうが、出場を認めないというルール作りだ。

これは甲子園大会だけでなく、地方大会でも徹底してもらいたい。

 

高校野球での投げ過ぎで、必ず語られるのが1990年の夏の甲子園で準優勝した沖縄水産大野倫投手である。

大野は甲子園での連投により、肘を故障して投手を諦め、打者に転向したのは事実だ。

だが、これはハッキリ言って時代が違う。

当時はまだ、高野連によるメディカル・チェックもなかった。

そして、高校野球ではエースが連投するのは当たり前の時代だったのである。

しかし、大野が引き金になって投手の酷使が問題視されるようになり、高野連によるメディカル・チェックが行われるようになって、複数投手制が勧められた。

現在では医学も進歩して、投手の肩・肘に関するケアは、当時とは比べ物にならないほど充実している。

昔はエースが1人で投げ抜くのが当たり前だったし、投球後の肩や肘のケアも充分ではなかった。

  

もう一つは、日程の問題である。

現在の甲子園大会では、準々決勝の後に休養日を1日設けている。

しかし、2017年のセンバツでは、引き分け再試合が2試合も生まれたうえに、それ以前に雨天中止があったから、休養日が無くなってしまったのだ。

そのため、再試合を行うことになった4校は、決勝に進出すれば4連戦の日程になったのである(実際には、この4校とも準々決勝以前で敗退したため、最大2連戦に留まった)。

これは「2日間の順延があれば休養日を無くす」というセンバツ規定(夏の場合は3日間)があったからだ。

 

だが、こんな規定が必要か?

2017年センバツの場合、順調に行けば3月30日に全日程が終了するはずだった。

しかし、大会序盤の雨天順延、引き分け再試合の2試合分、そして決勝戦前の雨天順延により、大会が終わったのが4月1日となったのである。

たしかに阪神甲子園球場は、阪神タイガースの本拠地でもあるので、日程を長引かせるわけにもいかない。

だが、阪神が甲子園を使用するのは4月7日。

3日間も順延しても、まだ中5日の余裕があったのである。

だったら、2日間の順延ぐらいで、休養日を無くす意味は全くなかったのだ。

高野連を批判するならば、こういう杓子定規的な部分だろう。

「2日間の順延ならば(夏の場合は3日間)休養日は無くす」なんて規定はやめ、よほど順延で大会が長引いた時だけ、阪神甲子園球場と相談して日程を変更すればいいのだ。

たしかに、日程が延びればテレビ放映や応援団の宿泊などの問題はあるが、これは雨天では試合ができないという野球の特性上、仕方あるまい。

 

2017年4月15日付の朝日新聞を読むと、高校野球の日程について、

「投手を守る意識改革は着実に進んでいる。さらに、現在の準決勝前に休養日を設けるだけではなく、準々決勝前、準決勝前、決勝前の合計3日の休養日を設けて、連戦がない日程にすることも一考の余地がある」

と書かれている。

この方が、タイブレークや球数制限よりも遥かに合理的だ。

夏の大会の主催者である朝日新聞でこう書かれているのは、日程について一歩前進かも知れない。

現在の甲子園大会では、春夏とも阪神甲子園球場が特別協力となっている。

元々、阪神甲子園球場高校野球(当時は中等野球)のために造られた球場だ(完成当時、プロ野球は行われてなかった)。

ここは阪神甲子園球場および阪神球団に協力してもらうしかない。

 

そもそも、阪神球団が阪神甲子園球場で行うホーム・ゲームは年間60試合と契約で決まっている。

阪神の年間ホーム・ゲームは毎年71~72試合。

つまり、11~12試合は、ホーム・ゲームで阪神甲子園球場以外の球場を使用するわけだ。

その11~12試合を春夏の高校野球の時期に充てると、充分に対応できる。

夏の時期になると阪神は「死のロード」と呼ばれるが、近年では京セラドーム大阪を使用するし、ほっともっとフィールド神戸も使用できるので、さほど負担にはなるまい。

 

そして、以前から筆者が何度も言っている、サスペンデッド・ゲーム制度を採用するべきである。

サスペンデッド・ゲームとは、延長戦に期限を設けて、それでも決着がつかなければ後日改めて延長戦の続きを行うという制度だ。

現在の高校野球では、延長15回を終わると引き分けになり、翌日に再試合となる。

以前は延長18回で打ち切り、翌日に再試合という制度だったが、1998年夏の横浜×PL学園が延長17回の死闘となって、以降は延長15回に短縮された。

だが、延長戦が18回から15回に短縮されるということは、再試合の可能性が増えるということであって、実際にこの制度に改められた後は引き分け再試合が激増した。

つまり、延長15回の翌日にはまた最低9イニングも戦わなければならなくなったので、却って選手の負担が増えたのである。

こんな改悪的な制度は即刻やめて、サスペンデッド・ゲームを採用すべきだ。

そうすれば、延長15回を戦った後でも場合によっては1イニングで済むかも知れないのである。

少なくとも、最低9イニングも戦う必要はない。

こんな単純な制度を採用しないのが不思議なぐらいだ。

ハッキリ言って、タイブレークよりも遥かにいい。

 

サスペンデッド・ゲームに関して、必ず引き合いに出されるのが2014年の軟式高校野球で起きた中京×崇徳の延長50回ゲームだ。

この試合を、野球ド素人の識者は残酷ショーと決め付け、もっともらしく批判を繰り返したのである。

だが、延長50回なんて滅多に起こらない、というより奇跡だ。

点が入りにくい軟式野球だからこそ起きた試合だが、軟式野球でも滅多には起こらないだろう。

ところが、ワイドショーでは「サスペンデッド・ゲームでは投手を交代できないが、再試合だったら他の投手を先発させることができる」と、とんでもないことを言っていた。

サスペンデッド・ゲームだと、投手交代ができない?

荒唐無稽もいいところだ。

そんなルールはどこにもない。

たまたまこの試合では、両校の監督が投手交代させなかっただけだ。

批判をするなら、その部分だろう。

また、高野連を批判すべき部分は、硬式野球でサスペンデッド・ゲームを採用しないことだ。

サスペンデッド・ゲームの採用に関しては、野球関係者が提唱しているのにもかかわらず、なぜかマスコミには伝わらない。

まるで、タイブレークや球数制限をゴリ押しするために、サスペンデッド・ゲーム論を黙殺しているようだ。

要するに、タイブレークや球数制限ありきで世論を操作しているのである。

 

こんな世論操作をしているのは、野球ド素人の識者に他ならない。

あるいは、野球に精通しながらアンチ日本野球、アンチ高校野球、あるいはアンチ高野連の連中である。

ハッキリ言って、アンチの意見など、何の参考にもならない。

彼らは、自分が気に入らないものを潰すことが目的なので、こんな意見は百害あって一利なしだ。

 

恐ろしいのは、現在はネット社会なので、彼らの意見を「もっともだ」と受け入れる無知の輩が多く存在することである。

ただでさえ日本は「空気」が支配する社会なので、ロクにモノを考えない連中が「空気」によって支配されるのだ。

そして、彼らは無責任な意見をネットに書き込む。

こうして、無責任な意見が社会に蔓延するという構図だ。

高校野球タイブレーク論など、その典型的な例と言えよう。

我々はそんな「空気」に捉われず、正しい目を持たなければならない。

 

そして、忘れてはならないのが、タイブレークは記録において重大な影響を及ぼすということ。

たとえば、投手がパーフェクト・ピッチングをしていても、延長戦に入りタイブレークとなれば、パーフェクト・ゲーム(完全試合)の記録はその瞬間に途絶えてしまうのだ。

その投手は1人の出塁も許していないのに、ただタイブレークというルールのために、人為的に出塁させてしまうから、完全試合とはならないのだ。

こんなバカげた話もあるまい。

 

野球とは、単に勝敗を競うスポーツではない。

記録も重要なファクターである。

野球ほど、団体スポーツでありながら、個人記録を算出できるスポーツは他にない。

そこが野球というスポーツの素晴らしいところである。

スコアブックを付けたことがある人なら、そのことが理解できるだろう。

 

WBCではタイブレークのみならず、球数制限が設けられている。

そのため、投手がいくら好投しようが、一定の球数を投げただけで交代させられてしまうのだ。

だから、WBCで完投など望むべくもない。

もっと言えば、たとえパーフェクト・ピッチングをしていながら、球数制限のためにこの大記録がパーになってしまうのだ。

こんなバカげた話もあるまい(NPBでは、日本シリーズの日本一が決まる試合で、8回までパーフェクトを続けながらその投手を降板させた愚かな監督もいたが)。

こんなルールを採用していること自体、主催しているメジャー・リーグ(正しくはWBCI)がいかにWBCを本気で取り組んでいないかがわかる。

WBCは野球世界一を決める大会と銘打ちながら、実際には各国から未来のメジャー・リーガーを募るオーディション・大会に過ぎないのだ。

そう考えれば、日本代表では青木宣親以外の日本人メジャー・リーガーに対して、MLB球団がWBCに出場させなかった理由がわかる。

MLBに所属する日本人投手がWBCごときで故障されては、MLB球団が困るからだ。

MLBで活躍している日本人投手の実力はもうわかっているから、WBCでオーディションをする必要はない、という理屈である。

恐ろしいのは、WBCでタイブレークや球数制限が採用されているからと言って、これが本当の野球だと誤解してしまう人が増えることだ。

WBCは本場のアメリカですら本気になっていない、歪な野球大会だということを理解しなければならない。

 

ここまで書けば、タイブレークや球数制限がいかに愚かで、野球文化を破壊するルールであるか、賢明な方ならおわかりいただけたかと思う。

まさしく百害あって一利なしのルールだ。

それを、タイブレークや球数制限を金科玉条の如く声高に叫ぶ人は、野球の本質がわかっていないのだろう。

まさしく愚の骨頂である。

 

【注】=戦時中の中等野球

日米関係が悪化した1941年夏から中等野球(現在の高校野球)が中止になったが、太平洋戦争が始まった翌1942年夏には文部省および大日本学徒体育振興会の主催で夏の中等野球が復活、例年通り全国大会が甲子園球場で行われた。

太平洋戦争中ということで軍事色の強い大会となり、死球というルールが外され、死球になりそうな球でも打者は避けてはならない(球から逃げるのは敢闘精神に欠ける、ということ。現在ではボールが当たっても打者が避けなければ死球とは認められない)とか、試合は先発メンバーの9人のみで行われ、よほどの大怪我でない限りは選手の交代は認められないなどのルールがあった。

ただし、守備位置の変更は認められていたため、投手交代は可能だったので(例えば先発投手が試合途中で外野手に回ってリリーフを仰ぐなど)、先発メンバーの中に投手ができる選手を入れておく必要があったのである。

そして、エラーをした選手には、軍人が殴り掛かる、なんてこともあったという。

およそ野球とは思えないこの大会、主催者が違ったため現在では記録としては残っておらず「幻の甲子園大会」と呼ばれている。

戦後、高野連が発足されたのは、国の都合による外部からの圧力に左右されないように、独立性を保つ機関となるためだった。

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語②~深紅から紫紺へ・センバツ初制覇編

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PL大平和祈念塔とPL桜(大阪府富田林市)

 

★1981年春(阪神甲子園球場
 第53回選抜高等学校野球大会

●一回戦

岡山理大付 000 000 000=0
P   L 000 000 23X=5

 

●二回戦

P  L 000 000 001=1
東海大工 000 000 000=0

 

●準々決勝

日立工 000 000 020=2
P L 301 003 01X=8

 

●準決勝

倉吉北 000 000 000=0
P L 000 001 21X=4

 

●決勝

印旛 000 001 000=1
PL 000 000 002x=2

 

◎中村新監督誕生

1978年夏、甲子園初制覇を果たしたPL学園(大阪)は、翌79年にも春のセンバツ出場し、春としては初のベスト4入りしたが、同年夏、翌80年春夏と3季連続で甲子園出場を逃した。

不振の責任を取り(当時のPLでは3季連続で甲子園不出場だと”不振”だった)、PLを甲子園初制覇に導いた鶴岡泰(現姓:山本)監督が辞任したのである。

代わって新監督に就任したのが、鶴岡監督の下でコーチを務めていた、同校OBの中村順司だった。

1980年秋、新チームになって弱冠34歳の中村監督が初采配を振るうことになったのだ。

 

中村監督が気にかかっていたのは、旧チームから二年生ながらエースだった左腕・西川佳明(元:南海ほか)のことだった。

いい球を持っているのに、後半になると崩れる。

顔色も、どことなく悪いように見えた。

本人に問い質しても、体調は悪くない、という答え。

そこで中村監督は、西川をPL病院に連れて行った。

 

西川の診断結果は、貧血症。

原因は極度の偏食で、西川はニンジンやピーマンなどの野菜をほとんど食べなかったのだ。

PLは全寮制ながら、野球部としては健康面はほとんどノータッチだったのである。

これではいけないと、中村監督は定期的に選手たちをPL病院へ連れて行き、健康診断を受けさせた。

結果、西川の偏食は直り、終盤に乱れる悪癖も解消したのである。

 

中村監督が着手した改革は、健康面だけではなかった。

選手たちとの交換日記を始めたのである。

これによって、選手たちが何を考えているか、どんな悩みを持っているのかを把握できるようになったのだ。

しかし、中村監督の狙いは、それだけではなかった。

選手たちが社会に出ると、文章を書かなければならない場面が必ず出てくる。

その時に備えて、文章を書く訓練をさせていたのである。

 

さらに、鶴岡監督時代は特別カリキュラムを組み、授業は午前中のみで午後から練習だったが、中村監督になってからは一般生徒と同じく授業は6時限目まで、練習開始時間も他校と変わらない午後3時からとなった。

野球だけやらせるのではなく、学力も身に付けさせてバランスの取れた人間に育てようとしたのである。

練習時間が減った分、効率化が図られた。

 

そして、高校生には将来性があることを踏まえ、欠点を矯正するよりも、長所を見つけてそれを伸ばすように指導した。

それだけでなく、目先の勝利を狙った奇策は好まず、あくまで正攻法で試合に臨んだのである。

小手先で勝っても、選手は成長しない。

それが中村監督の信念だった。

そのため、選手たちには野球の基礎を徹底的に叩き込み、「30歳過ぎまで野球を友としてプレーできる選手」に育てようとしたのだ。

そのため、中村監督は自らを「技術屋」と呼んでいた。

 

◎西の横綱

中村新監督となったPLは、80年の秋季大阪大会で優勝した。

近畿大会では、翌年夏にエースで四番の金村義明(元:近鉄ほか)を擁して甲子園制覇を果たす報徳学園(兵庫)を西川が完封するなど、圧倒的な力で勝ち進んで優勝した。

もちろん、翌1981年春のセンバツには、文句なしで選ばれたのである。

 

この年のセンバツで優勝候補に挙げられたのは、前年夏の甲子園で一年生エースの荒木大輔(元:ヤクルトほか)を擁して準優勝に輝いた早稲田実業(東京)。

そして、エース西川の他に主将で三番の吉村禎章(元:巨人)一塁手、リード・オフ・マンの若井基安(元:南海・ダイエー右翼手など、タレントを揃えていたPLも「西の横綱」と呼ばれ、早実と並ぶ優勝候補に数えられていた。

さらに、捕手で四番打者だったのが田淵幸一(元:阪神ほか)の遠縁という田淵哲也、そしてセンバツではベンチ入りしなかったものの前年秋の近畿大会に出場した植草裕樹朝日放送(ABC)アナウンサーである植草貞夫の息子だった。

この年のPLは、近親者が有名人という選手がなぜか多かったのである。

 

やがて開幕した春のセンバツは、大波乱の幕開けだった。

「東の横綱早実が東山(京都)に不覚を取り、初戦敗退したのである。

さらに報徳学園も、剛腕・槙原寛己(元:巨人)を擁する大府(愛知)に敗れ、一回戦で姿を消した。

 

PLも対岸の火事ではなく、初戦は病気によってエースを欠く岡山理大付(岡山)に大苦戦、序盤は無得点も終盤にようやく打線が繋がり、5-0でなんとか中村監督に甲子園初勝利をプレゼントした。

二回戦は東海大工(現:東海大静岡翔洋に統合、静岡)のエース成田仁弘が好投、PL自慢の強力打線が沈黙したが、9回表の二死無走者から吉村がソロ・ホームラン、西川が虎の子の1点を守り切って1-0でなんとかベスト8に駒を進める。

準々決勝の日立工(茨城)戦では打線がようやく爆発、西川は今大会初めて失点したものの8-2で完勝、2年ぶりにセンバツ4強に進出した。

準決勝では山陰の強豪・倉吉北(鳥取)に苦戦しながらも、またもや西川が完封、PLは春のセンバツでは初の決勝進出を果たしたのである。

 

◎「逆転のPL」を再現

決勝の相手は、センバツ2回目の出場で決勝に進出してきた印旛(現:印旛明誠、千葉)。

実は、PLと印旛には浅からぬ因縁があった。

この年から3年前のセンバツに初出場した印旛のエースは、後に社会人野球で活躍しソウル・オリンピックにも出場した菊池総。

大会屈指の剛腕と言われ、一回戦でPLと対戦、初戦の好カードと注目されながら0-4で完敗を喫した。

PLはその年の夏に全国制覇するので仕方はなかったのだが、印旛にとって打倒・PLが目標となったのである。

 

そして前年秋の関東大会では見事に優勝を果たし、堂々とセンバツにも選ばれ、その強力打線で早実、PLに次ぐ優勝候補の一角にも挙げられていた。

エースは佐藤文男(元:阪神ほか)、強打の三番打者が月山栄珠(元:阪神)という、高校卒業後には共にプロ入りするバッテリー。

また、一番打者の村上信一(元:阪急・オリックス)もプロ入りしており、3人もの選手が高卒でプロに進むという、県立校とは思えないほどの有力選手が集まっていた。

エースの菊池に頼っていた3年前と違い、投打のバランスが取れた総合力で決勝に進出したのである。

2017年のセンバツでは、履正社×大阪桐蔭という史上初の大阪決勝対決が話題となったが、実はこの年も上宮(大阪)が準決勝に進出しており、印旛を破っていれば36年前に大阪決戦が実現していたが、印旛がそれを阻止していたのだ。

 

夏の次は春の初優勝を狙う「西の横綱」PLと、3年前の雪辱を誓った「関東の暴れん坊」印旛が激突した。

試合は、4試合中3試合を完封で飾ってきたPLの西川と、大会前はさほど注目されなかったものの今大会に入って調子を上げてきた印旛の佐藤との、息詰まる投手戦となる。

 

試合が動いたのは6回表、印旛の攻撃。

先頭打者を一塁に出した印旛は、準決勝の上宮戦でホームランを打った月山に送りバントを指示、月山がこれを決めて一死二塁のチャンスとなった。

四番の白川恵三は見事なピッチャー返し、ゴロがセンター前に抜けて二塁走者がホームイン、印旛が待望の先制点を挙げる。

 

その後、印旛のエース佐藤による淡々としたピッチングを、PLの強力打線は捉えることができない。

1-0で印旛が1点リードのまま、遂に9回裏のPL最後の攻撃を迎えた。

 

佐藤は落ち着いて一死を取る。

あと2つのアウトで、出場2回目の県立校が全国制覇だ。

しかし、七番打者の東信明が左前打、一死から同点のランナーが出る。

だが、佐藤にまだ疲れは見えず、球のキレから言って印旛の初優勝を疑う者はいなかった。

 

ここでPLの中村監督は勝負の一手を打つ。

代打に三年生の谷英起を送り出したのだ。

ところが、谷は球審に選手交代を告げようとしない。

「あれ?アイツ、上がっているのかな」

中村監督がそう思った瞬間、ベンチの奥にいた守備要員の新二年生・佐藤公宏と目が合った。

「オレを代打に出してください!」

佐藤がそう訴えているように思えた。

もう中村監督に迷いはない。

谷をベンチに呼び戻し、佐藤を代打に起用した。

 

マウンドに立つのは印旛のエース佐藤、打席に立つのはPLの守備要員・二年生の佐藤。

この同姓対決、格から言えば印旛の佐藤が圧倒的に上だが、なぜか急に制球を乱し、3ボール0ストライクとなった。

なんとか2つストライクを取ってフルカウント、次のストレートをPLの佐藤が思い切り引っ叩いた。

 

「練習でも、あんな当たりは打ったことがない」という佐藤の打球はグングン伸び、センターの頭上を遥かに越えた。

一塁走者の東は長躯ホームイン、PLが同点に追い付いた!

二年生の佐藤、起死回生の同点三塁打である。

 

一死三塁で打者は八番のエース西川。

もう、スタンドの誰もがPLの逆転サヨナラ勝ちを確信していた。

果たして、カウント3-0から積極的に打って出た西川の打球はゴロで一、二塁間へ。

前進守備を敷いていた一塁手の横を抜けて行き、三塁走者の佐藤が跳び上がってホームイン。

PLがサヨナラ勝ちでセンバツ初制覇!

この逆転勝ちにより、3年前の夏から始まった「逆転のPL」「奇跡のPL」の異名は不動のものとなった。

 

これまで、夏の甲子園では優勝1回、準優勝2回と強さを発揮していたが、春のセンバツではベスト4が1回のみで「春に弱いPL」と言われていた。

しかし、今大会のセンバツ初優勝でそのイメージを払拭したのである。

 

そして、中村監督にとっては就任して僅か半年、甲子園初采配で優勝を勝ち取った。

そこには、基本と個性を重視した選手育成と、メンタル面での強化が見事に実を結んだのである。

 

中村監督はベンチで絶えず白いボールを握っていた。

これは、緊張するために汗取りの意味で硬球を持っていたのだ。

ところが、他校の監督は「あれはサインに違いない」と勝手に疑い、疑心暗鬼に陥っていたのである。

それで中村監督も「こりゃいい道具だわい」と、ますますボールを手放せなくなった。

その後「ベンチでボールを握る中村監督」は甲子園の名物風景となったのである。

 

この頃の中村監督は「相手はみんな先輩監督。つまり、自分よりは上だ。だったら、相手監督のことは気にせずに、選手が持てる力を発揮できるように集中しよう」と誓った。

そこで、選手たちをリラックスさせるために「○○の看板はどこにあるかわかるか?」などと話しかけ、ある時はテレビのアナウンサーが「PLの選手たちはみんな空を見ています。あ、飛行機が飛んでますね」などと言っていた。

 

勝戦の試合前、中村監督は「泥んこになってプレーしよう」と言った。

もちろん「泥臭く、一所懸命に全力を尽くそう」という意味で言ったのだが、選手たちは顔に甲子園の黒土を塗り、本当に泥だらけとなった。

このバカ正直さに、中村監督は思わず苦笑した。

 

こうしてPLは、3年前に獲得した深紅の大優勝旗から、今度はセンバツの象徴である「VICTORY」と書かれた紫紺の大優勝旗を手にしたのである。

閉会式で、紫紺の大旗を受けとった主将の吉村は、試合前と同じく顔が泥んこのままだった。

 

【つづく】

 

①西川佳明  三年
②田淵哲也  三年
吉村禎章  三年 主将
④辻本壮一郎 三年
⑤東 信明  三年
⑥松本 治  三年
⑦岩井忠彦  二年
⑧泉谷素啓  三年
若井基安  三年
⑩岡信泰教  三年
⑪中村 剛  三年
⑫高橋吉宏  三年
⑬谷 英起  三年
⑭星田倫好  二年
⑮佐藤公宏  二年

 

1978年夏

1981年春

1982年春

1983年夏

1985年夏

1987年春

1987年夏

”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語①~「逆転のPL」誕生編

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高さ180mのPL大平和祈念塔(大阪府富田林市)

 

2017年3月29日、高校野球の超名門校として知られるPL学園の硬式野球部が、大阪府高等学校野球連盟に対して脱退届を提出、府高野連もこれを受理して正式に脱退した(軟式野球部はそのまま加盟)。

PL学園と言えば甲子園で春3回、夏4回、計7回という2位タイの優勝回数を誇る(2017年春現在。1位は中京大中京の計11回)。

今後、部員募集再開の目途が立ったら再加盟の申請をするというが、それがいつになるかはわからない。

いずれにしても、一つの時代の幕が下りたと言えよう。

そこで今回から、PL学園が甲子園で優勝した大会の詳報を連載する。

 

★1978年夏(阪神甲子園球場
 第60回全国高等学校野球選手権記念大会

●二回戦

日川 000 000 002=2
PL 100 001 03X=5

 

●三回戦

熊本工大高 000 000 000=0
P   L 002 000 00X=2

 

●準々決勝

県岐阜商 000 000 000=0
P  L 001 000 00X=1

 

●準決勝

中京 000 101 011 000=4
PL 000 000 004 001x=5

 

●決勝

高知商 002 000 000=2
P L 000 000 003x=3

 

◎万年優勝候補

PL学園(大阪)はこの年まで、夏の甲子園で2度の準優勝を果たしていた。

日本一の練習設備を誇り、優秀な選手が集まって、歴史は浅いながらも全国屈指の強豪校にのし上がったPLに付けられたニックネームは「万年優勝候補」。

それは、恵まれた環境ながら甲子園制覇に届かないPLを揶揄した言葉だった。

 

1970年の夏は初めて甲子園の決勝に駒を進めたが、東海大相模(神奈川)との打ち合いに負けて準優勝。

2年前の1976年夏は、決勝戦桜美林西東京)に延長11回の激闘の末に3-4でサヨナラ負け、またもや準優勝に甘んじた。

この試合では終盤までリードしながら7回裏、同点に追い付かれ、延長戦で敗れたのである。

この頃のPLは、どちらかというと「実力はありながら勝負弱い」というイメージだった。

 

1974年からPLの監督に就任したのは、南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)の名監督と言われた鶴岡一人の息子である鶴岡泰(現姓:山本)。

高校球界きっての”サラブレッド監督”の鶴岡監督は、PLを押しも押されもせぬ強豪校に押し上げたが、心技体のうち「心」がまだ欠けていたのかも知れない。

 

◎大阪大会前にPLを襲ったエースの故障

2年前の準優勝から、悲願の甲子園初優勝を目指したこの年、春のセンバツでPLはベスト8に進出、夏の大阪大会でも当然のことながら優勝候補に挙げられていた。

しかし、エースの西田真次(現:真二。元:広島)が利き腕の左腕を故障、”PL株”は大暴落したのである。

 

西田はセンバツ3試合で僅か3失点、しかも自らホームランを放つという、文字通りの大黒柱だった。

控え投手に、卒業後プロ入りする金石昭人(元:広島ほか)がいたが、プロ入りは伯父の400勝投手・金田正一(元:国鉄ほか)の弟である金田留広(元:東映ほか)のコネ入団のようなもので、実際には西田が1人でPLのマウンドを守っていたのだ。

金石は自著で、

「僕は練習の時でさえ、正捕手で主将だった木戸克彦(元:阪神)に球を受けてもらえない程度の投手だった」

と語っている。

そんな選手がプロ入り後は一流投手になるのだから、PLの選手層は当時から相当厚かったと言える。

それはともかく、西田不在のため誰もがPLの甲子園出場は無理だろうと思った。

 

しかし、大阪大会前に西田の左腕は奇跡的に完治した。

原因不明の左肩痛が、原因不明で回復したのである。

プロ入り後、西田は「今までで一番嬉しかったことは?」という質問に対して「甲子園で優勝したことよりも、左肩が治って再び背番号1を背負い、マウンドに立てたこと」と答えている。

西田は法政大学進学後、打者に転向したが、プロ入り後は勝負強い打者として定評があった。

PL時代に、一度地獄を体験したことが勝負強さを生んだのだろう。

 

西田が復活したPLは、夏の大阪大会では最大のライバルと見られていたセンバツ出場校の浪商(現:大体大浪商)が早い段階で敗退するという幸運もあって、危なげなく春夏連続甲子園出場を決めたのである。

 

◎「奇跡のPL」へのプロローグ

夏の甲子園に出場したPLは二回戦から登場、日川(山梨)を5-2で一蹴した。

三回戦は西田が2ランを放ち、その2点を守って熊本工大高(熊本)を完封、2-0で勝って8強に進出した。

準々決勝では県岐阜商(岐阜)に大苦戦を強いられるも1-0で西田が2試合連続完封、打線が湿りがちながらも西田の素晴らしいピッチングで4強に駒を進めた。

 

そして準決勝、相手は高校球界№1の名門、今大会でも優勝候補筆頭の中京(現:中京大中京、愛知)である。

中京打線は今大会絶好調の西田を捉え、9回までに4点を奪った。

逆に不調のPL打線は中京エースの武藤哲裕にキリキリ舞い、1点も取れずに0-4と4点ビハインドのまま、9回裏の最後の攻撃を迎える。

 

先頭打者は四番の西田。

この時、球審の西大立目永(にしおおたちめ・ひさし)は、嫌な予感がしたという。

PLの試合は、どんな点差でも不思議と客が席を立たない、と。

つまり、このクソ暑い中、PLが反撃して試合が長引くんじゃないか、という意味での「嫌な予感」だった。

かくいう筆者も、この試合で甲子園のスタンドにいた1人だ。

もちろん、席は立たなかった。

ちなみに筆者は、PL学園のある富田林市出身である。

 

バッター・ボックスに向かう西田に、西大立目は声をかけた。

「どうせ負けるんだから、待球なんかせずに初球から思い切り打て」。

審判としてはあるまじき行為だとも思えるが、西大立目は待球作戦などを嫌った。

野球とは、積極的に打っていくスポーツだ、というのが西大立目の信念だったのである。

 

そんな西大立目に従ったのか、あるいは最初からそのつもりだったのか、西田は初球を思い切り叩いた。

打球はあっという間に一塁線を抜け、西田はトップ・スピードのまま塁間を駆け抜けて一気に三塁へ。

PL、無死三塁のチャンス!

点差はまだ4点、遅きに失した感はあったが、この三塁打が反撃の狼煙となった。

いや、あるいは西大立目の一言が、進軍ラッパとなったのかも知れない。

そして、試合は西大立目が感じた「嫌な予感」どおりに進んでいく――。

 

五番の柳川明弘が放った打球はレフト・オーバーの二塁打となり西田が生還、ようやく1点を返してなおも無死二塁。

この時、甲子園から暖かい拍手が起こった。

よく1点返したな、これでいい思い出になるだろう、と。

この時はまだ、甲子園の観客は誰もが、この試合がPL伝説の始まりになるとは夢にも思ってなかったのだ。

 

しかし一死後、七番の戎繁利の中前打で2点目、さらに八番の山西徹が左前打を放って一死一、二塁と攻め立てると、甲子園のマンモス・スタンドがざわめき始めた。

慌てた中京ベンチはエースの武藤を一塁に下げ、一塁手の黒木光男をマウンドに送る。

しかし、これが中京にとって仇となった。

 

九番の中村博光は一死ながらバントで送り、二死二、三塁で同点のランナーがスコアリング・ポジションに進んだ。

打順はトップに返り谷松浩之(元:ヤクルト)は四球を選んで二死満塁、続く二番の渡辺勝男にも黒木は制球が定まらず3ボール0ストライク。

もはや大観衆は、2点ビハインドながらPLの逆転ムードとなり、異様な雰囲気となった。

たまらず中京ベンチはエース武藤をマウンドに戻し、なんとか3ボール2ストライクまで持ち込んだ。

結論から言えば、これも中京にとって凶と出る。

 

次の球、渡辺が放った打球は二遊間へ。

セカンドがなんとか捕って、二塁カバーに入ったショートにトスしたが間一髪セーフ、一塁に転送したがこちらもセーフとなる。

この間に三塁走者がホームを駆け抜け、しかも二塁走者までが生還した。

PL、9回裏に一挙4点、奇跡の同点劇!

 

二死満塁でボール・カウントが3-2だったため、全ての走者が一斉にスタートしていたのだ。

もしそうでなければ二塁封殺で試合終了だったかも知れないし、セーフだったとしても少なくとも二塁走者までは生還できなかっただろう。

全ての運命が、PL同点劇へ向かっていたのだ。

 

その後は中京がなんとか抑えて延長戦に突入したが、もはや甲子園はPLの逆転勝ちムード一色に染まっていた。

そして延長12回裏でPLの攻撃、二死一、二塁で五番の柳川が放った打球はサードゴロ。

サードが難なく捕って一塁送球、3アウト・チェンジと思ったら、ファーストの黒木が落球、二死満塁でPLサヨナラのチャンスとなった。

そして六番の荒木靖信がボールをしっかりと見極め、ストレートの押し出し四球。

遂にPLが4点差をひっくり返し、延長12回の大激闘の末、5-4で奇跡のサヨナラ勝ちを収めたのである。

もはや甲子園は、かつてないほど興奮の坩堝と化していた。

 

試合終了後、PLの鶴岡監督は、

「こんな試合、一生に一度味わえただけでも幸せだ」

と語った。

だがこの試合は、これから長く続く伝説の序曲に過ぎなかったのである。

2日続けて奇跡が起こるとは、誰も想像できなかっただろう。

 

◎甦った不死鳥PL学園

決勝に進んだPLの相手は「黒潮打線」を誇る名門・高知商(高知)。

エースは二年生左腕の森浩二(元:阪急)という、PLの西田とのサウスポー対決である。

試合ごとに純白のユニフォームで挑むPLに対し、高知商はゲンを担いだのか大会中は一度も洗濯をせずに、甲子園の土で汚れたままの真っ黒なユニフォームで登場した。

PLの白と高知商の黒とのコントラストが印象に残る決勝戦となった。

 

私事で恐縮だが、この日の筆者は町内の子供ソフトボール大会に出場するため、決勝戦は見られないはずだった。

しかし試合前、簡易バックネットのロープに足を引っ掛けてこけてしまい、アゴを思い切り地面に打ち付けたのである。

グラウンドに大量の血が流れ、救急車を呼ぶほどではなかったものの、すぐに車で病院に運ばれた。

病院でアゴを何針か縫い(たしか9針だったと記憶している)、なんとか午後には帰宅できたが、今でもアゴには、その時の傷跡が残っている。

しかし、アゴは痛かったものの、内心は嬉しかった。

なにしろ心置きなく、決勝戦を見られるのだから。

そして、世紀のドラマを生放送で見ることができたのだから、PLのみならず筆者にも奇跡が起こったのだった。

 

さて、試合の主導権を握ったのは高知商

3回表、高知商は二死満塁から四番・青木悟の左前打で2点先制した。

高知商のサウスポー森は、右-左ー右ー左とジグザグに組んだPL打線を完璧に抑えていく。

試合はその後、両軍とも甲子園の手書きスコアボードに0を並べ、2-0で高知商リードのまま、あっという間に9回裏のPL最後の攻撃を迎えた。

 

この時、真紅の大優勝旗は大阪湾を越えて四国に上陸し、高知の上空を飛んでいた。

あとは、はりまや橋に着地するだけである。

ところが、台風13号が四国沖に接近していたのだ。

台風はそのまま近畿地方へ針路を取り、9回裏になると青かった甲子園の空を黒い雲が覆い、強風が真紅の大旗を大阪へ押し戻そうとしていたのである。

 

9回裏の先頭打者は九番の中村。

中村は森の初球を叩き、センター前ヒットとなった。

この日の西大立目は一塁塁審で、当然のことながら中村には声を掛けることはなかったが、前日の西田に続く初球攻撃である。

この積極性が奇跡を呼び込んだのだろう。

 

続く一番の谷松を迎え、それまで淡々と投げていた森のリズムが急におかしくなってきた。

谷松にストレートの四球を与えてしまったのである。

森の脳裏には、前日の大逆転劇がよぎったに違いない。

 

無死一、二塁と同点の走者を出して、続く二番の渡辺は送りバント

高知商はなんとかアウトを取ったものの、内野陣の動きはコチコチで、危うくセーフになるところだった。

一死二、三塁と一打同点のチャンス、甲子園の大観衆は2日続けてのPL大逆転劇なるか?と、騒然とした雰囲気となった。

 

ここで三番の主将・木戸がセンターへ犠牲フライを打ち上げて1点差。

しかし、高知商にとってはアウト・カウントを1つ増やしたわけで、2アウトまでこぎ着けた。

あと1アウト奪えば高知商が悲願の甲子園初優勝である。

真紅の大優勝旗は、淡路島の辺りで高知へ行くか大阪に行くか、迷っているようだった。

 

得点は1-2、PL1点ビハインドの9回裏二死二塁で、打席に立つのはエースで四番の西田。

西田は笑みさえ浮かべながらバッター・ボックスに入った。

アウトになれば全てが水泡と化す、絶体絶命のピンチなのに、なんという自信だろう。

ボール・カウント1-1となった3球目、高めのクソボールを西田は思い切り振った。

もちろん空振りで、カウント1ボール2ストライクと追い込まれる。

それでもまだ、西田の表情には余裕があった。

試合後、この空振りに関して西田は、

「意識して振ったんです。一度、思い切りバットを振ってみたかった」

と語った。

勝戦の土壇場で、自分の欲望そのままに、わざと空振りしたのである。

 

そしてカウント1-2からの4球目、甘く入ったカーブを西田のバットが捉えた。

鋭い打球が一塁線を破り、一塁塁審の西大立目はフェアのゼスチャー、ボールはそのままラッキーゾーンに飛び込むエンタイトル2ベースとなった。

二塁走者の谷松がホームイン、PLが遂に2-2の同点に追い付く。

一度はマウンドを諦め、地獄を見た経験が、西田の強心臓を生んだのか。

2日続けての9回裏の同点劇に、甲子園は爆発しそうになった。

 

同点の二死二塁で、打者は五番の柳川。

この時点で、甲子園のマンモス・スタンドを埋め尽くした5万8千人の大観衆は、誰もがPLの逆転勝利を確信していただろう。

カウント0-1からの2球目、高めのストレートを叩いた柳川の打球は、レフトの遥か頭上を越えた。

二塁走者の西田が、バンザイしながらホームを駆け抜ける。

 

「戦いは終わった!甲子園の夏は終わった!3対2、PL学園初優勝!青春のドラマは今、終わりました!まさにPL、奇跡の逆転!サイレン鳴って、もう戦いはありません!」

朝日放送(ABC)アナウンサーの植草貞夫が、テレビで絶叫した。

 

「ああ PL PL 永遠(とわ)の学園 永遠の学園」

今大会、5度目となるPLの校歌が甲子園に流れた時、ホーム・プレート上に整列したPLナインは、全員が目を強く閉じながら校歌を歌っていた。

溢れる涙を止めようと、必死に瞼を瞑っていたのである。

 

翌日の新聞は「奇跡は二度起きた!」「甦った不死鳥PL学園!」と書き立てた。

準決勝は4点ビハインド、決勝では2点ビハインドを跳ね返し、2試合連続のサヨナラで逆転勝ちしたのである。

この大会から「逆転のPL」伝説が始まった。

 

PLは翌春のセンバツにも出場、一回戦で中京商(現:中京、岐阜)に6-4、二回戦では宇都宮商(栃木)に4点差を跳ね返し延長10回の末8-6で勝って、甲子園で4試合連続の逆転勝ちとなった。

かくしてPLは「PL GAKUEN」の二段ユニフォームと共に「逆転のPL」として他校から恐れられる存在となったのである。

 

【つづく】

 

①西田真次  三年
木戸克彦  三年 主将
③渡辺勝男  二年
④中村博光  三年
⑤戎 繁利  三年
⑥山西 徹  三年
⑦荒木靖信  三年
⑧谷松浩之  三年
⑨柳川明弘  三年
金石昭人  三年
⑪山本英樹  三年
⑫竹中暢啓  二年
⑬山中 潔  二年
⑭阿部慶二  二年
⑮小野忠史  二年

 

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